NGOで4年間活動した自分が、アフリカスタートアップで働くことを決めたワケ。第2弾

アフリカ編です。
ここから、うまく言葉にならない部分が増えるかもしれません。

いよいよウガンダに飛んで、とにかく見るものから食べるものから何でもかんでもカルチャーショックですが、特に一番記憶に残っていることだけ書こうと思います。

ウガンダの首都からデコボコ道をひたすら走って、(人生初、赤道を跨いで、)ラカイという地域に行きました。現在はどうか分かりませんが、当時(撲滅にかなり成功していると言われているウガンダで)最もHIV/AIDSの蔓延している地域です。そこで元々あしながと交流のあった小学校を訪問しました。
全校生徒が校庭に集まって、歓迎会を催してくれました。校長先生が「両親もしくは片方の親が亡くなっている子は手を挙げて」と呼び掛けて、9割近くの子どもの手が上がった時、予想以上の数に驚きました。日本では自分は完全にマイノリティだった、それがここラカイではマジョリティであることを一瞬で理解しました。

でも、それ以上の衝撃は、「歓迎セレモニー」の中で子どもたちが歌った歌です。英語の歌詞ですが、以下のような内容でした。
 私のお父さんは亡くなった
 私のお母さんは亡くなった
 エイズによって
 私のお父さんは亡くなった
 私のお母さんは亡くなった
 エイズによって
 どうか恵みをください
シンプルな歌詞の繰り返しです。ただ、Hello/thank you程度の英語しか理解していない(小学校の先生に対しても現地語通訳が必要でした)このエリアの子どもたちが、歌詞の意味を理解していたのかが、ずっと胸にしこりのように残ったままです。
私の父も、病気で亡くなりました。でも、それを歌にしたいとは、絶対に思わない。歌わされるのなら、なおさら。そして、それを支援集めの方法として使われるのは、絶対に嫌だと、個人的には思います。子どもたちは笑顔で見送ってくれたけど、学生団体の面々は一様に無口だったのを覚えています。

少し移動して、おなじラカイのエリアで、家庭訪問もしました。小学校訪問から重苦しい空気をぬぐえないままです。
HIV/AIDSで両親を亡くして子ども3人だけで生活している家庭に行きました。土を固めた壁でできた家に、食料は芋1本と、バナナが数本しかありませんでした。もちろん、電気もガスも水道もありません。
リサーチが目的だったので、通訳を介していろいろと質問をさせてもらいました。最後に通訳が「日本から来たゲストに何か質問は?」と聞くと、返ってきたのは「次はいつ来てくれる?いつ戻って来てくれる?」という言葉でした。
何も返せませんでした。次に来る予定はない、アフリカの貧困の現状をリサーチしに来たのであって継続的な支援にきたわけではない。今回は家庭訪問のお礼として食糧を持ってきたけれど、次に持ってくる予定はない。そんなこと、言えるわけがなくて、申し訳なさをいっぱいに抱えてまたバスに乗り込みました。

帰りのバスで、自分の正義感がどれだけちっぽけだったか痛感して、絶望感に浸りました。
実は、自分たち学生募金が募金額の半分を寄付するアフリカ遺児支援は、教育によってアフリカをよくしようというプログラムで、アフリカ各国から選抜された遺児たちが先進国での大学留学を経て自国に貢献することを促すもので、その効果が出るまでに長い時間を要することから、100年構想と呼ばれています。
「でもそれじゃ、さっき会った子たちは救えない」と思いました。その効果が出るまでに、あの子たちは餓死してしまう。
自分たちの支援がアフリカにとっていかに必要かを、街頭で訴えよう。結論ありきのリサーチのはずが、自分たち自身の圧倒的な矛盾を突き付けられた状態で、日本に帰ることになりました。

結局、この2週間のウガンダ研修で不完全燃焼に終わった自分は、大学4年目を休学して、再びウガンダに行くことにします。
ウガンダでのインターンを通して個人的にスキルアップを図りたいという理由もあり、あしながウガンダ事務所でのインターンをして過ごします。
今度はそこで7ヶ月生活して、新たなもやもやが増えることになります。ウガンダで、外国人はめずらしいので、とにかく目立ちます。面白がって声をかけてくる人もたくさんいます。友人もたくさんできました。でも、見ず知らずの人にかけられる言葉が気になって仕方ありませんでした。
「お金をくれ」
「私を支援して」
「恵みをください」
外国人=お金持ちのイメージがあるのだと思います。特に、距離的にもものすごく遠いアジアから来ているということは、お金に余裕があると判断されて当たり前だと思います。
ただ、本当のところ、自分自身も支援を得て大学に通う貧乏学生です。200円のものを、200円で買えないことに(外国人価格を提示される)不満がつのっていきました。

一方で、現地人の友人とは、とてもいい関係を築いていました。
長い間日本人と働いている人もいたので、その点でも接しやすかったのかもしれません。
結果的に、彼らのおかげで知らなかったウガンダを見ることができたと思っています。同年代の彼らが、等身大の不安を打ち明けてくれたのが、一番印象的でした。
「先進国の支援はいろいろある。だから運が良ければ大学まで行けたりもする。でも、大学を出た先にほとんど仕事がない。どうやってうまくこの国から離れて先進国に行って仕事を得るか、ウガンダにいる外国人に雇ってもらうか。それが若者の一番の関心なんだ」
数字で見る失業率も、たしかにひどい数字です。でもそれよりも、10代20代が、こんなにも自分の国に絶望していることに、悲しくなりました。

またもや2000字も書いてしまいました。
次が、スタートアップ編です。

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