人はいつも何かを得ようとしている
それと同時に何かを恐れている
その恐れの先に求めているものがあるかもしれないということは過去の経験からわかっているはずだが、それを確信づけてくれる後ろ盾がないというこの状況ではその恐れに抗うことができない
その時に人は自分の生き方を問う
自分の熱情が正しく放出されず、そのベクトルが恐れによってずれてしまうという現象にぶち当たり、ベクトルをずらした主語が一体どこに潜んでいるかがわからなくなる
暫定的に主語を自分自身と置くことで、自己が分断された感覚を得る
それが離人症へと繋がる第一歩であることは自らの体験より確認されている
恐れとは自己の鏡であり、自己の下階層のイデアであると想定するならば、慄き戸惑うのはとても滑稽なことであるが、現に人はほぼ須く恐れを抱いている
なぜなら恐れ=下階層のイデアは常に快楽=上階層のイデアと避けがたく結びついているから
仏教の三毒という考えに「欲、怒り、愚かさ」が挙げられる
己への執着からの解脱を目指す思想として、これらは人の依存先としての表現と考えられる
そして左から順に、その様子が観測しやすいものであると私は考えている
恐れと快楽は欲の表現として考えられており、執着を抜け出せない人間模様を表している。
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