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有意義とはどうあるべきか

「カセユマって、毎日めっちゃ有意義に過ごしてるよね」とよく言われる。高校時代には「カセユマだけ一日27時間説」と言われた時があった。与えられた時間の中での生産量を最大化する、つまり生産性が高いことを有意義というらしい。

今日は、この「有意義」とはどうあるべきかについて考えたい。

前述の通り有意義とは生産性が高いことであると定義する。生産という定義は曖昧なので、これを満足度を高める行為だと考えた。つまり有意義であるとは、満足度が最大化された状態ということである。

満足する主体は誰なのか疑問に思っている人がいるかもしれない。私はこれは「自分」が満足していることを指せば良いと思っている。

例えば、外交における会議が「有意義なものになった」と表現される時であっても、それが有意義だと判断するのはあくまで会議に参加した、またはそのような記事を書いた「自分」である。他にも、先生が「夏休みは有意義に過ごしましょう」と言ったとしても、その長期休みが有意義だったかどうかを判断するのは結局「自分」だからである。

つまり有意義とは自分が満足できれば達成できる単純なものであるのに、現代人は、一般的な有意義の概念に当てはめられ、そして自らを当てはめ、自分を苦しめてしまっているように感じる。

一般的な有意義とはどう言ったものなのだろうか。私はこれは二種類に分けられると考えた。一つ目の有意義とは、自らに課された、または課した義務がある場合は、その義務をこなすために時間を費やすことだ。例えば仕事に勤しんだり、試験を受けるために勉強をしたり、バイトをしたり、部屋の掃除をしたり。抽象的に言えば、現状の状態から何かしら変化を産む行為をすることだと言えると思う。次に、義務がない場合には、有意義とは変化を産むポテンシャルを高めるような行動をとることだと思う。平たく言えば、インプット強化に時間を割くことである。本を読んだり、芸術鑑賞をすることが一般的に有意義だとされるのは、変化の芽を育てていると考えることができるからだと思う。

この定義自体には問題はない。しかし、我々がこの定義に踊らされていることは、大きな問題だと思う。

例えば、私たちはよく「昨日暇だったのに全然有意義にできなかった〜」などと後悔をする。何もしない時間というのは、状態の変化を産むことはおろか、変化する可能性すら高まらないからだ。暇な時間は、有意義にならないかもしれないリスクを抱えた危険な爆弾として扱われる。最も簡単にそのリスクを回避する方法は、有意義の第一の定義を満たすことである。予定を入れてしまえばいい。こうして私はいつも分刻みのスケジュールで動き回ることになる。

有意義とは、先ほども述べた通り、自分主体で判断されるべきものである。だから、私は、一般的な有意義観から離れ、自分の思う有意義を深めたいと考えている。私の有意義には、一般的な有意義に加えて、もう一つ大切な要素が存在する。それが、自分を発信する時間を設けることである。

文章を書いたり、無言で思考を巡らせる作業からは何も変化は生まれないかもしれない。だが、自分が五感を通じて吸収した刺激と、その時に感じた感情と、それまでの経験との比較と、そう言った思考の破片の結びつきを整理して、また取り出せるように綺麗にまとめる作業は心地よくて、私にたまらない満足感を与えてくれるのである。

私なりの有意義を追求するには、私は二つの勇気を持たなくてはいけない。暇を恐れ義務を生んでしまう逃避行動を断ち切る勇気。そして、変化を生まないこの自己発信というものに時間を割こうと判断をする勇気。

今マルタ島で一人で暮らしている私は、幸いにも、勇気なしで、自らの有意義を求めるができる孤独を手にしている。私は自らの有意義を実現するために、この環境の一瞬一瞬全てを楽しもうと思う。


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