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人を喜ばせることが好き!体育の先生になりたかった編

さて、昨日の続きですが、わたしが中学生1年の頃の話です。その頃、3年 B組金八先生がテレビでやっていたり、なめ猫(猫が学ラン着てる。)漫画は、ハイティーンブギが流行っていたと思います。校内暴力大全盛の時代。わたしの中学にも、授業中に、暴走族が学校にバイクで入ってきたりしてました。はい。あの時代です。わたしも御多分に洩れず、長いスカート、短いセーラー服を着てました。そして、革の学生カバンは、綺麗に潰してカバンの底には、鉄パイプで形をガシッと整える(カバンの厚みが鉄パイプの幅ということです。鉄パイプを入れていると、タイマンはるときに断然に強い威力を発揮します。ご想像にお任せします。)裏には、大きいマッチ(近藤真彦さんの大ファンだった)のスッテカーを貼り、自分の名前を金色の油性マジックで名前をすごい画数の多い漢字に変えて書いてました。素晴らしくかっこいいカバンは、ある日部活をしているときに盗まれました。でも、わたしのその目立つカバンを盗んだやつを目撃し、すぐにそのカバンは、帰って着ましたが、マッチのステッカーは、外され、金色のわたしの名前も消され、挙げ句の果てに、わたしのせいではないのに、教育指導の先生に教員室に呼び出しをくらい、カバンに辞書を縦に入れられ、鉄パイプが外されて帰って来ました。めっちゃ余談になりましたが、わたしの担任先生が、確か新卒2年だった、体育の先生で、神山先生と言い、私たちは、じんさんって呼んでました。めっちゃ美人で、元スケバンで、その頃ジンさんは、23歳です。めっちゃ大好きな先生に出会いました。今聞いたら仰け反ると思いますが、みかんのあみにビー玉入れて、タイマンはる時に、使ってたって、言ってました。そして、わたしもじんさんみたいな体育の先生になりたいって、言っていたと思います。まあ、運動神経だけは、すごく良くって、フォームがいいってよく褒められ、ハードルの飛び方とか、お手本になってやってました。今、考えると、あれ、中学生の頃の夢かなっているのじゃない。今、わたしは、生活のために、ピラティスとジャイロトニックのトレーナーをやっています。2007年からやっているので、早13年。ジャズシンガーだけじゃ生活できないので、どうしても、生活のために仕事をしなくては、なりませんが、わたしは、中学生の時になりたかった夢に近い仕事をしている。なんて幸せなことなんだろう。ここに至るまで、いろんな仕事をして来ました。ニューヨークにきたばかりの時は、働けるヴィザもないので、日本のピアノバーのホステスをしていました。着物のママがいる高級クラブです。ここで、学費と生活費をなんとかしていました。ニューヨークの大学の学費も自分で払っていました。学生ビザの間は、ずっとホステスしてた。日本にいた時も、ホステスをしていたので、楽勝と思いきや、こっちのお客様は、大企業のエリート商社マンばかりでしたので結構大変だった。あ、その前に、子豚クラブっていうキャバクラでも働いた。その時は、日本の芸能人をよく接待してました。話が脱線しまくっていますが、シンガーも、トレーナーも、ホステスも、人気商売です。ライブは、見にきてくれる人がいないと、利益が発生しないし、トレーナーは、個人営業のような感じなので、やはり人気がないと稼げない、ホステスも、指名がないと、時給だけってことなんです。まあ、人が相手というのは、本当に、人間力が試される。喜んでもらわないと、わたしの元に帰ってきてはくれない。だから、一生懸命、技術を磨いたりして、いいサービスを提供しなくてはならない。今やっているトレーナーの仕事は、クライアントの体が変わっていくのが目に見えるので、めっちゃやりがいあります。今日は、こんな感じで終わりにします。明日は、また、ガールズバンドのことでも書こうかな。。。



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