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「ペドフィリアの社会的責任」というゾッとする言葉 その2

私のバイト先は雑居ビルの2階にあるお店である。店内のBGMはYouTube音楽がPCからスピーカーに流す感じで行われている。ポップな音楽が一区切りして次の音楽が流れてくるはずだったのに、最近のYouTubeは怖いね、突然「お前何1週間も稽古さぼっているんだよ」「何ビデオなんて見ているんだよ」「先輩がビデオに出てる」って声がスピーカーから聞こえてきてボードゲームやっていた人たちがズッとなる。ネットブースにいた人が俺じゃないと立ち上がる。全てを察した私は急いでオーナーのいるカウンターに飛んで行った。何とか「お前らこういう関係だったの」の所で止められた。

smartphone スマホ

さて、前記事が凄い反響を受けていたスマホで通知が表示されびっくりしている。そんなに凄い事を書いたつもりはない。私がnoteを打ち込んでいるアパートのリビングにある親戚共有の中古PCの横にある私の本棚にあるものは、教科書と某眼鏡探偵漫画と「KZシリーズ」とグラサンの書店主人のおじさんが「もう○○できないねぇ」という漫画くらいなものだ。公民会館の公営図書室で本は借りているけど購入はほとんどしない。ああ、別に個人用の本は持っているけど、これはページ数の少なさを利用して別の場所に保管してある。プライベートチャットでの友達との会話は、大体某警察学校の話だ。うへへうへうへ。

そういう人間故に、私は「公共空間理論」とか「表現の自由の理論的展開」とか全く分からない。そういう事はネットにいる頭のいい人にお任せしたい。

しかし、私が前記事を書いた理由は、「公共空間」「表現の自由」以前の問題があるからだ。すなわち「ペドフィリアにも差別や偏見から守られる権利がある」「個人として尊重され社会で生きていく権利がある」が普遍的なものとして扱われていないという事だ。

あの三丁目氏の記事は一応読んだ。あの記事を読んであのショタドールの漫画家が何が問題だったかは何となくわかる。私がこの記事を見て思ったことはただ一つである。だから何だよ

あの漫画が公共空間で不適切だったことと、ペドフィリアを犯罪予備軍とみなし、その危険性を自明のものとして扱う事は別である。ましてやあの記事に触発されて「ペドフィリアを強制隔離して治療するべきだ」「ラブドールは犯罪を誘発するから禁止すべきだ」に発展させ、ペドフィリアを社会的に排除する事を、三丁目氏のように「社会が警戒するのも仕方がない」と許容するのがいいのかって話である。

恐らく意図してだろうが、三丁目氏は「LGBTと違ってペドフィリアは嗜好であり趣味である」という言説を最初に持ってくることで「ペドフィリアそのものが犯罪一歩手前の認知のゆがみである」とミスリードしている。Twitterではフェミニストと言われる人でかなりの数がそれに乗っかっている。

でもよく考えてみろよ。あのノートを引用しているフェミさんの「ペドフィリアが趣味で犯罪一歩手前で認知の歪みである」事を証明するバロメーターがなんで「同性愛は相手がいれば合法だが、ペドフィリアは相手に手を出せば即違法である」なんだよ。LGBTはそんな定義づけされていい存在じゃない事は、あの気色悪い笑いのセカンドレイパー議員がきっかけで散々議論されてきただろう。

小児性愛は愛ではありません、児童に手を出したら即犯罪です」という言葉をやたらラブドール規制派は連呼するが、これも連中のやり方なのである。

例えばLGBTに対して「男性が男性をレイプするのは犯罪ですよ」とやたら念押しする奴がいたとしよう。物凄くウザくない? だってそんなことはわかっているからだ。そんなことはわかってるんだよみんな! 

ペドフィリアの多くが「自分の性欲求を実現したら犯罪」だなんて言われんでも倫理的にそんぐらいわかっている。それを敢えて「大切なので二度言いましたキャピッ」と強調しまくるって事は、この言葉は実はペドフィリア当事者に向けていない。つまり「ペドフィリアはそんなこともわからない危険な連中」と強調したいのである。ふざけんな。

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この図に対して「じゃぁ資料を出せ」「参考元を出せ」という人もいた。いいでしょう、参考元を出しましょう。WikipediaPixiv百科事典ニコニコ大百科である。誰でも書き込めるネット百科事典だ。信憑性ざまぁみろ。あとは、自分も性暴力の被害者の大学教授パメラさんが書いた「9人の性的加害者」も参考にしているし、BBCの番組でも苦悩する犯罪傾向のないペドフィリアを扱っている。他にもいくつか英語の資料は読んだ。ハーバードの医療学校のサイトとかニューヨークタイムズとか。ただこれらはWikipediaに書いてあることの確認程度である。

つまりせめてWikipediaでも見てくれていれば「ペドフィリアのうちチャイルドマレスターに走るのはほんの一部で、ペドが特別に犯罪率が高いデータはない」「チャイルドマレスターのうちペドフィリアが占める割合も多くはない」「ペドフィリアという性傾向と犯罪に走らせる認知のゆがみや支配欲は別」なんて事くらいはわかるのだ(「ペドフィリアは生まれつきではなく児童ポルノを見て認知を歪めそうなる」という専門家もいるが、児童ポルノそのものが違法だし調査対象が性加害をした人間であって、大多数の犯罪を犯さないペドフィリアは頭数に入っていない)。

資料を出せ? ゲイが男子のケツを810先輩の自宅の部屋やベッド、893事務所の部屋で狙っている奴ばかりじゃない事を言うのに資料は必要か? 当たり前として認知しておくべき事だろう。同時にペドフィリアについての基本情報についても、彼らを精神病院閉鎖病棟に隔離して安楽死だの強制治療だの言う前に調べとけ!

ペドフィリアは実行したら即犯罪だから重点的に注意しなければならず、社会がペドフィリアを警戒し排除論が生まれることも仕方がない、原因は不適格な表現をしたあのショタ漫画家にある』という考えは、差別を再生産するマジョリティの怠惰の上に成り立っている。

ペドヘイターは「子供が性的なものだという認知のゆがみが児童性暴力を生み出す」と言っている。つまり以下のように考えている。

児童性的

つまりこの図で行けばスマホを取り上げれば真人間は真人間のままであり、児童への性加害のない素晴らしい社会が待っているのである。

しかしこの上の図には基本的な間違いがある。もう一度、私は表現の自由について話しているわけではない事を念頭に考えてみて欲しい。ペドフィリアの大半が上の図の白いシャツに青い帽子の真人間に位置しているのである。まぁ、ペドヘイターは「ペド自体が認知の歪みなので、青い帽子の真人間の中にいるわけがない」と考えている。彼らから「児童は性的であると認知させるアイテム」としてドールを取り上げるとどうなるか。下のようになる。

ドール 児童性的

彼らの大切なものを取り上げることで、彼らに対して社会はどのようなメッセージを出すことになるか考えるべきだ。ペドフィリアの人間の人権は普遍的なものであって、その性傾向を理由に人権を制限されたり社会から排斥される事は、例えショタドール漫画が不適切であっても、絶対に許されてはいけない。異論があるなら「LGBTには生産性がない」だの「性的少数者の自殺率が高いんだってキャッハ!」だの言った某のケツを舐めてからにしろ。お前らは仲良しだ。

もしかしたら「確かにペドフィリアの大半は安心かもしれないが、一部にヤバい奴がいる。その一部が重大な被害を児童にもたらす以上、ペドよりも児童の権利が優先されるべきだ。ペドフィリアのドールを一律に取り上げる事は仕方がない」という人もいるかもしれない。では「その一部のヤバい奴」(それがペドでない可能性だって高いわけだが)に対して情報、表現を取り上げたら、どんなことが想定されるだろうか。以下フィクションですwww。

フィクション 児童

ヤバい奴は「ペドかどうか」以前に「他者への共感、想像力の低さ」「認知のゆがみ」「暴力衝動」「支配欲」があるのである。つまり「児童が性的であるという情報(と一方的に認定されたもの)」をシャットアウトしてもヤバい要素は別にあるので、別の場所でどうでもいい理由で「児童は性的に扱っていい」と認知し、カラオケ店で(以下略)してしまうのである。さらに上図のヤバい奴はペドフィリアではない可能性の方が高いのである。「性傾向」にプラスして「認知の歪み」が犯罪を引き起こすことは、性犯罪に取り組む医療や社会支援の現場では当たり前の認識になっている。

私は児童の安全は最優先であり、その為には大人の人権を公共の福祉の為に必要最低限制限するのはやむを得ないと考えている。だからショタドールのアレを批判する人の気持ちは理解する。しかし今回のショタドール漫画騒動にはじまったペドフィリア排除論は、公共の福祉ではなく自らの差別意識を発露しただけである。漫画を公共の場所に出した事の成否は関係ない

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