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ヒョウ柄

 ナツは動物が好きだ(まあ最近少しその熱も冷めてきた感があるが)。女子が好きな動物といえばウサギ?とかリス?とかの可愛い系の小動物だろうか。私も子どものころ、好きな動物は?と聞かれたら、(そもそもそんなに動物が好きというワケではなかったが)ウサギ、と答えていたと記憶している。

 ところがナツはそういう系ではない。ネコ科の肉食動物が好きなのだ。一番好きな動物は密林の王者トラ。それに草原の貴公子チーターとか。他にはライオンとかヒョウ(特にユキヒョウ)、ジャガー、カラカルとかである。

 だいたいからして、他の家族は体形もみんな薄っぺらくて痩せているのに、ナツだけが骨太でガチっと引き締まった感じである。母親の私は草食系で一時はマクロビオティックにはまり、着るものも綿や麻が専らのナチュラル系である。ナツの名前の漢字は2文字とも草木に関係があるのだが、ナツにこの名前を付けたのも、何かこう、自然と調和したイメージからである。(だが考えてみればナツの名前から想起するのは何よりまず「生命力」である。しかも自然と調和というのを植物に限定するのがそもそもおかしいのである・・・そう考えると草食とか肉食とか、あまり関係ないのかもしれないが・・・)

 それなのに、こともあろうに肉食動物が大好きな子に育ってしまうとは。ちなみに食べるほうの肉も大好きである。がしがしそれこそ肉食動物のように肉を食らう。(自分の好きな肉食動物の真似をしているともいえるが)豪快である。

 小学校低学年の頃、学校の図書室から借りてくる本は肉食動物の様子がリアルに描かれているものが多かった。ライオンとハイエナが獲物を争うとか、草食動物が食われてしまうがそれも色々な種が生き延びていくための自然界の掟なのだという終わり方をする本とか、情け容赦ない世界である。(アキが同じ年齢のころは「元気なマドレーヌ」シリーズとか借りてきたりして、こっちはこっちでなんとかわいい系の本を借りてくる男子だろうと思ったものだったが。ちなみにハルの時は「かいけつゾロリ」シリーズを読みまくっていた。本当に三者三様である。)

 そして、このような子どもにとっては当然のことなのかもしれないが、ヒョウ柄の服とか小物とかが好きである。これまでの私の人生には全く縁遠く、身に着けたことなど一度もなかったあのヒョウ柄である。

 ある時、兄の制服のワイシャツを買いに近所の洋品店に行った時のことである。私と兄がワイシャツをあれこれみていて、ふと見ると、なんと、鏡の前でヒョウ柄のマフラーを巻いてうっとりしているナツが、いた。「ねぇ、これいいー!ほしいなー。ほしいなー。」「え、今日は兄のワイシャツ買いにきただけだからまた今度・・・」「今度の時はなくなってるかもしれないよ!」「う、うん。だいじょうぶ!まだあるんじゃない?」

 鏡の中で何回もポーズをとりながら「ねー、これしてるとなんか頭よさそうにみえる~」。え、そ、そうかな?ヒョウ柄って頭よさそうな感じするのかな?なんか逆なイメージなんだけど、と思いながら「そ、そうだね~」とか言ってみる。

 結局この時マフラーは諦めてもらったのだが、その後くつ下とか、ナツのもので何かが必要になる時には一応ヒョウ柄のものがないか確認するようになってしまった。先日もこども服売り場でヒョウ柄がないか確認していて、はっとした。この私がヒョウ柄を探すようになる日が来るとは!

 お蔭で私も以前より動物に興味を持つようになり、ナツと動物の絵本を読んだりするうちに自分でも読むようになった。子ども向けから大人向けまでいろいろと。そして今は文鳥を飼っている。その文鳥の気持ちをナツと代弁して言ってみるのが毎日の楽しい習慣である。それに、ナツと何度もペットショップに犬、猫を見に行っているうちに、将来家の人口密度が減ったら猫は飼ってもいいかも~と思うまでになった。(本当に飼うことになったら保護猫かなと思っている。)ナツにはまだ内緒である。

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近年「文転」した福岡伸一さんの幸せな子ども時代をうかがい知ることができる。夢中になれる子ども時代がどれだけその人がその人の人生を生きる糧になるか。今の子どもたちとも重ねながら、本当に大切なものは大人が与えるものの中にはないことを改めて思わずにはいられない。

 福岡さんは本の中で、個体発生は系統発生をなぞると述べられている。個体である胎児が生命の歴史を背負って、母体の中で生物の系統発生の過程を経てヒトになるように、個体の進化は個を超えた種の進化を辿っている。それは、生物学的な事象だけでなく、近代化といった人間の歴史的営みにも当てはまるのではないかと。人にとって「センスオブワンダー」であった自然は近代化により分類、所有、解明すべき対象物となってしまった。だが、福岡さん自身「文転」したように、センスオブワンダーへの気づき直し、という契機は誰にでもあり得る。

 さらに、じぶんなりに個体発生と系統発生について考えるとき、子どもが育つということにも何か当てはめることができるように思う。たいていそれぞれの社会の中で人がどう育つか、系統発生的には想像がつくことなのだが(だから先を生きてきた大人が先回りしてあれこれアドバイスという名の指示をする)、それでもなお個体発生的にじぶんで実際に経験することで子どもは成長していく。何事もじぶんで経験しなければ身体的な感覚を伴ったものとして物事を実感することはできないと言えるのでなないか。結果的に大人がたどってきたのと似たような成長のしかたをするのかもしれないが、自分自身を生きるという決定的に大切なことがそこにはある。

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