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YouTuberみこちゃんとしての個性を出していくために、一回思想的なおさらいをするの巻

 YouTuberみこちゃんでーす(^-^)v

 デビューのスタートダッシュが終わって、チャンネルのコンセプトも見えてきました。

 それは、「習慣」という身近でありながらとても、大げさに言えば人間存在とはなにか、に通じるテーマを分かりやすく追求するということです。

 いきなり哲学になっちゃいましたが、つまりこういうことです。

 昨日の自分と今日の自分は、考え方も違っているし(多くは同じであるにせよ)、それから分子レベルで見ると体の大部分は新陳代謝で細胞が入れ替わっている。これでも、昨日の自分と今日の自分は同じだとどうして言えるのか、という素朴な疑問もあります。

 あとは、不幸にして交通事故にあって記憶を一切なくした、アルツハイマー病で完全にそれまでの自分というものを想起することができない。

 自我同一性というものは、いったん疑ってみると、はななだ曖昧なものであることに気付かされます。曖昧すぎて、突き詰めて考えると何だか怖いくらいですよね。

 そうです。

 つまり、「習慣」というのは、良い習慣であれ悪い習慣であれ、その人が昨日の自分と今日の自分が同一であることを規定する、とっても哲学的な主題だよな、と思うのであります。

 また、別の話題ですが、輪廻転生という考え方もありますし、前世という考え方もあります。みこちゃんは、科学の恩恵に浴していることを感謝していますが、輪廻転生も前世も一概に非科学的であるという理由で考えるに値しないとはどうしても思えません。

 習慣という自我同一性は言ってみれば「有」の世界(現実世界)での連続性であると定義し直すことができると思いますが、ここに「無」という概念を加えると、それは前世との間の自我同一性ということを扱うスキーム、パラダイム(学問的にあの世を扱うことができる)も、スムーズに組み立てられます。

 このように、「習慣」というものを考えたときには、とても射程距離が長くいろんな物事をまな板の上に乗せることができます。

 そこで、いつかはきっちり勉強し直さないと、と頭の中に宿題になっているのが、みこちゃんの仲良しnoterさんのダルマさんのnoteの一連の論考なのです。

 noteの仏教関連のものは、大学院博士課程でで宗教学を修めた住職の方を含め、いろんな記事を探しては読んでおりましたが、ダルマさんのnoteを読んだときには、それらのご高説は、全部消し飛びました。レベル的にダルマさんの展開される議論、とくにその問題意識がすごすぎて、まずはダルマさんの仏教論を理解してからでないとだめだな、と思った次第。

 というわけで、この記事は心優しき(かなり年上の)畏友noterさんダルマさんのご紹介でもあります。


 例えば、さっきの「有」と「無」に関しては、かつてダルマさんとこんな話をしていました。もう去年の話ですね。

 当時私は、仏教の瞑想と、この間まで動画にしていたマインドフルネスとの関係などをぼんやり考えており、とりあえずはマインドフルネスは「有」の領域に限定された瞑想だな、くらいに思っておりました。大筋ではこの考えは今に継続しているのですが、そんな中、コメント欄にて、とても刺激的なやり取りがあったことを振り返りたいと思います。

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 このときには、さっき書きましたが、私は仏教の瞑想とマインドフルネスとの違いを自分なりに定義して納得したいと思っていたので、このやりとりにて、マインドフルネスは瞑想とはその宗教性(つまり「有」と「無」の性起の境目)を扱うかどうかの違いである、という自分の定義をとりあえず確定させることができました。

 勝手にそう確定していたのですが、それでいいのかどうかは、また今度ダルマさんに教えてほしいなと思っていました。

 仮にそれで問題がないとすると、今度は、マインドフルネスとお釈迦様のヴィパッサナー瞑想はどう違うのか、という新しい疑問が出てきます。

 これについては、ダルマさんがみこちゃんのYouTubeのコメント欄にヒントをくれているのです。


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 仏教との関連で理解するひとつの発展的方法としては、ダルマさんが示唆してくださっているように「潜在意識」と「認知の束縛」が有効だと思います。

 そしてこれは四聖諦と八正道の話ときれいに重なります。四聖諦の苦諦、集諦、滅諦、道諦というのは、ものすごく乱暴に言うと、悪い習慣を捨てて、良い習慣を身に着け、良い習慣の果に涅槃を得る(もしかしたらそのときは習慣という概念そのものが消滅する)過程だと思います。ちょっと大胆すぎるかな……。

 大胆ついでに言えば、みこちゃんは四聖諦の最後の「道諦」を更に具体的にしたものが「八正道」だと考えていて(合ってるかな?)、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定というのは、マインドフルネスが瞑想的な動作だけでなく、動画で取り上げたように、「書くマインドフルネス」であったり「ゆっくり食べるマインドフルネス」であるということと、ぴったり一致すると思うのです。

 つまり、マインドフルネスを黙って座っていると考えると、仏教の「道諦」→「八正道」の流れが出てこず、これはよくあるなんちゃって仏教(仏教の都合のいいところだけ取り出してくること)になってしまう。

 よくスピリチュアルの人が「手放す」ということを言いますが、あれは四聖諦でいれば、「滅諦」に相当すると思います。しかし、滅諦は次の道諦に引き継がれなくてはならず、道諦は八正道に引き継がれるべきものです。八正道は念じるだけでなくて、すごく具体的な行動です。

 だから、手放せばすべて願いがかなう(本当のスピリチュアルではなくなんちゃってスピリチュアル)、とか、強く念じればすべてが叶う引き寄せの法則(本当の引き寄せの法則ではなくなんちゃって引き寄せの法則)っていうのは、仏教的な見地から言っても、なんだか都合のいいつまみ食いだとしか思えません。


 かように、マインドフルネスという新しい精神の取り扱い技法を学ぶ際には、仏教で蓄積してきた知見を使えば、その正しいあり方が見えてくるのではないか、とみこちゃんは考えております。

 もともとが、マインドフルネスは仏教から出てきたものですしね。

 こんなことを今、いろいろ考えています。

 頭が整理されてきたら、また動画作りに反映させたいと思います!

 みなさま、引き続き、末永くYouTuberみこちゃんをよろしくお願いいたします。


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