意識を一般化することについて

一部の私のことをよく知っている人からすれば、「またお前はそんな自分で自分の気分を害するようなものを見つけてきて…」と呆れられてしまいそうだが、またもXで目に入ったポストで気分がもやもやとしたわけである。

おそらくカレンダーか何かに書かれた、「良い言葉」の類だろうか。
「許そうよ 君もいっぱい 許された」
と書かれたものの写真とともに、「これがわからない人は周りから人が離れていく」という内容であった。

このポストをした人の言わんとしたいことが全く理解できないわけではない。自分の意に反することが起きた際に、はたと自分を顧みた時、自分もまた周りにお目溢しをもらってここまで来たではないかと考えてその場を飲み込むというのがお互い様だ、というニュアンスだろう。自分の意に反するからと言って一つ一つ拒絶していけば孤立していく、というのは私も重々理解できるし、これまでも実際意識して寛容さを持っていようとしてきた。実際そのおかげか、私は多くの素晴らしい人間関係に恵まれている。文字通りの持ちつ持たれつな人間関係を築き続けている。

ただ、個人的にこのポストはなぜか引っかかった。というのも、自分が傷つくことをされた時に「許してあげようよ」みたいな流れで第三者から許すことを促されているような過去がフラッシュバックした…という次第だ。
実際その流れで相手を許したけれど、相手は結局のうのうと何度もこちらの気分を逆撫でするような真似を繰り返し、結局許したところで自分にメリットなどなかった、というような思い出が蘇ったわけだ。

どんなに尊厳を傷つけられたり苦しめられたりしても、その相手を無条件に許すことができる人がいたらそれはもう立派としか言えないし、素晴らしいと思う。
だが、かれこれここまで生きてきて、小学生時代は凄惨ないじめを、大学時代はストーカーやデートDV、就職してからはパワハラやモラハラ、痴漢の被害を経験してきた私としては、たとえ他の物事で覆い隠すことができていても傷が癒えきることがない以上、それを心の底から許すのはとてもじゃないが簡単ではない。それらの事象は私の心を蝕み、自己肯定感を育めなくなり、今にも続く無力感や劣等感を深く根付かせた。相手は私をここまでの状態にしてものうのうとしているが、私はこれをどうにかしようと努力して10年以上歳月をかけているのだ。それを「許そうよ」なんて言われた日にはたまったものではない…と思ってしまったわけだ。


決して私はXのそのポスト主を批判したいわけではない。しかしながら、「許せない」気持ちに対して「許そうよ」と一般化するには、あまりにも人の心の敏感な部分を強く刺激してしまう内容だけに、発信力のあるアカウントで出す内容としては、もう少し慎重に言葉を選ぶ必要があったのではないだろうか。もちろん、元々のカレンダーについてもそうだ。そのポストに対する多くの人の反応が、私と同じようにこの言葉を言葉通りに受け取るのが難しいと感じるものであったから尚更だ。

「許せる」ことは確かに素晴らしいが、許せない、という感情もまたその人の大切な感情であり、尊重すべき意思であることを、人の痛みが分かる人間から発信する必要があるだろうと思う次第だ。
どうして許せないと思うのか、そこに至る苦しみや悲しみに寄り添い、その上でどう昇華させていくかを考えずにただ「許そうよ」という言葉で一般化してしまうのは、いささか暴力的と言わざるを得ない。それをしようにも難しいと悩む人の自己肯定感を下げ、苦しめてしまうのが御の字であろう。









最後に完全に余談だが、相手を許したからと言ってその相手からも同じように許されるとは限らないのである。
家内の話なのだが、家内がどんなに家事や自己管理を放置しても私は静かに許してフォローしているものの、家内は私が少しでも家のことをうっかりするだけで大激怒し、必死に謝っても相手はその気が済むまで不機嫌をぶつけてくる。
毎度毎度精神的に疲弊するのが私ばかりになれば、本来許せることも許せないと思うことも増えてくるのでは…と、そう遠くない未来に向かって溜息をついたのであった。


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