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男女間のパートナーシップってなんですか?~夫りょういち編~

「男女間のパートナーシップ」

とは何だろう?

まず、パートナーシップ。

パートナーシップ【partnership】 の解説1 協力関係。共同。提携。2 英国や米国で、複数の個人または法人が共同で出資し、共同で事業を営む組織。日本の組合3に類似する事業体。出資者はパートナーと呼ばれ、組織を所有する。

とある。

まあ、ここでは男女間なので1の協力関係、共同、提携。となるのだろう。なので「男女間のパートナーシップ」とは

「男性と女性で協力し合ったり、一緒に何かをなす為の協定」です。

はい「男女間のパートナーシップ」の説明は以上、終わり。

となるんだろうけど、大概この手の話しのテーマの源泉には

「男女間のパートナーシップ」が上手く行かない

「男女間のパートナーシップ」が循環しない

といった、問題意識があるんじゃないだろうかと思う。(俺はまわりくどい)

これはつまるところ、

相手や状況を自分の思い通りにしたい

2人(もしくはそれ以上)の関係性を自己都合に合う現実にしたい

という事だと思うんだけど(俺はまわりくどいpart2)これは批判してるわけでもなくて普通の感情だろうし健全な事じゃないんだろうか。

だってこれはただ単に「幸せになりたい」と言っているだけで、人間が「幸せになりたい」と望むのは当たり前だし、「幸せになりたい」という運動そのものが人間であると思う。

つまり、男女間のパートナーシップを問題にしているって事は

「男女間のパートナーシップ」を良い状態にする事によって幸せになりたい

「男女間のパートナーシップ」が良くなれば今よりも少しは幸せになれるだろう

って事だろう。

で、いきなり結論だけど、

それはない。

残念ながら。

もちろん僕の経験上の話しではあるけれど。

僕達夫婦の在り方を知る周りの人から「理想の夫婦です」とか「そんな男女関係に憧れる」とか言われる事が割と多い。

僕の思い違いでなければ「そんなパートナーシップを築いて私も幸せになりたい」と言われているように感じるけど、そんな所をいくらほじくり返してみても幸せなんて出てこない。

永遠に満たされないおしゃぶりをしゃぶる様なものだ。

憧れの高級マンションに住んでみたってそこに在るのは生活そのものだ。

幸せになれるパートナーシップなんて無い。

でも僕達は直ぐにそういうものを追いかける。

飽きもせず、性懲りもなく、健全に。

何でだろう?

人生は本の様なものではないだろうか?

僕達は本に書かれた文章に注目する。

黒い文字が綴るストーリーや文脈に。

そして好みのストーリーと嫌いなストーリーが展開される。

好みのストーリーだけが展開すれば良いのだけど、そんな事はありえない。僕の経験上。

そして好みでないストーリー展開の場面で「これは問題だ」と僕達は言うのだ。

幸せになるためにこの展開を改善しようと画策する。

「これを習得すれば幸せになれますよセミナー」に行ってみたり「何ちゃらメソッド」を試してみたり。止めときゃいいのにそこそこ高い金をまた僕達は払ってしまう。

しまいにはハイヤーセルフとかいう怪しいセルフさんが発しても無い声を聞いちゃって「これを味わう為に地球に来たんだ」などと言って今をなんとか肯定してみたり。

そしていつしかストーリーは勝手に展開し始める。

色々悩んでたのが嘘だった様に。

あのセミナーやセルフさんのお陰だという勘違いを孕みつつ。

それで大概全てがOKになっちゃう、その時は。

人生はハッピーで「魂の修行が終わりました」って声が聞こえそう。

だが又やって来るのだ。

生まれた事さえ後悔させる様な下降気味のストーリーたち。

「なんじゃぁ~!このクソみたいな展開は~!!何とかしてくれ~!!」

こんな事の繰り返しだ。掴んだつもりがまた滑り落ちる。

これが僕の経験上の話しだ。

そうじゃない人がいるなら連絡下さい。セミナー代払います。

ところで僕達が本当に望んでいるのはこんなちんけなものだろうか?

ちょっとした展開で陰りをみせたり、遠のいてしまう様な頼りない幸せか?

「これを経験しに来た」なんてクソだ。

そんな慰めは本当に望んでいるものじゃない。

何度もセミナーに取り組んで何とか乗り越えても結局どこにも辿り着かない。

どんな辿り着く場所もない。

そして相変わらずストーリーは続いていく。

「なんじゃぁ~!このクソみたいな展開は~!!何とかしてくれ~!!」

良いストーリーだけの人生はない。

でも僕達は又追い求める。

「左端のない右端だけの棒」

そんな事の繰り返し。

そしていつしか気付き始める。

この終わりの無い悪循環にもがく事が「苦しみ」だったのでは?と。

「幸せ」があるのではなく「苦し」みがあるのでは?

本に書かれる文章にはどうしても良い展開と悪い展開があり、そこにもがく「私」が苦しみだったのでは?

そんな何処かで何度も聞いた事を受け入れざるをえなくなった時、しょうがない事として諦め始めた時、ふと浮かび上がる様な、匂い立つ様なものがある。

それは「文章を存在させる白い余白」の様なものなのだ。

ストーリーを追っていた今までも本当はずっと見えていた「余白」

そして、余白に浮かぶ黒い文字、黒い「・」の集まり、それに意味付けをして文脈を見ていたこと。

「良い事」と「悪い事」…


結婚して13年、今のところ僕達夫婦は仲が良い。

でも恐らく実態を見る人がいればイメージとのギャップを感じ、意外に思われるんじゃないかと思う。

僕達は滅多に見ない程「気を使い合う関係」であり「言いたい事を言い合わない関係」である。

「お隣さんは今どんな具合かな?」というご近所付き合いの様な夫婦だなぁと思う。

どちらもいつの間にか文脈の中に幸せを求める事に疲れてしまったふしがある感じだ。

「自分の隙間」は「人」では埋まらない事、それを求める事は終わりのない循環であるという事。

そして「幸せがあるのではなく苦しみがあるのだ」とふと思いだす。

そして文字は文脈を無くし、黒い色を支える白い余白が匂い立つ。

条件無しにそのままで良いと思える。

もちろん「今に感謝」とか「持っているものに感謝」なんて考えない。

そんなものは文脈でありストーリーだ。落ちている時の一時のメソッドで続きゃあしない。

感謝しようがしまいがストーリーは勝手に展開していく。

感謝も今も「余白」と一緒に匂いたつものだ。

ついでに「良いパートナーシップ」も匂い立つ。

掴めるものなんて何もない。

そして僕達はまたストーリーを楽しむ。

「良い事起きないかなぁ?」

「この問題がなくなってくれないかなぁ?」

って又繰り返す。

性懲りも無く、健全に。













藤山家嫁ゆっきぃ 最愛の旦那さん亮一さんと最愛の娘(7歳)空さん、義理母きみ子さんの4人&愛猫2匹でめっちゃ幸せに暮らしている。亮一さんと私、双方から1つのテーマについてやりとり形式のブログを書き綴っていきます。 夫婦のこと、SEXのこと、子育て…亮一さんの面白い視点に注目!