見出し画像

募集したテーマについて書いてみます!『尊重できないような意見がぶつかった時どうしてますか?』~嫁ゆっきぃ編~


どうもこんにちは。

藤山家嫁ゆっきぃです。

実は先日、Facebookでこの夫婦ブログのテーマを募集してみたんです。

(誰も何にも反応してくれなかったら悲しいな…なんて思いながら。汗)

そうしたら何人もの方がテーマを下さってね…感涙(T_T)

ほんとにありがとうございます!!

反応してくださってめちゃくちゃ嬉しかったです!!


で、これから何回かにわたって、みなさんにあげて頂いたテーマを私の独断で選び、綴っていこうかと思います。

(選ぶ基準は私が亮一さんに書いてほしいと思うテーマなのですが…すません…)


さて、今回はこちらのテーマについて綴っていこうかと思います。

画像1


美しいKさん、ありがとうございます!!


『意見がぶつかった時どうするのか。それぞれを尊重できる場面ではない場合』


むむむー。

ねー。

これ難しいよね。


さて、このテーマを投げかけてくださったKさんも書いていますが、、

なんと!

私たち夫婦にはそういう状況がありません。

そう。

ないんです!!

どはーーーん!!!!


…終わってしまった…


いやいや、ちゃんと書きます。


こちらにも書いてあるように、私たち夫婦は気を使い合う夫婦だそうで。☟(亮一さん的にはそういう表現になるらしい。)


そもそもお互いを尊重できないような意見の相違ってどうして起こるのでしょうか?

そこには何があるのでしょうか?


「これだけは譲れない!!」

「わかってくれないなんて悲しい!!」

「私のことを尊重してくれないなんて愛してないんだわ!!」

「どうしてわかってくれないの?」

「私のことをちゃんとみてくれないなんて…」

「全然私を知ろうとしてくれない、ひどい…」

「あなたのことを尊重するには先に私のこともちゃんと尊重するような態度をとってくれないとできませんけど。」


『お互いを尊重できないような意見の相違』という言葉を聞いて私が感じた(思い浮かべた?)言葉って上記のような感じなのですがどうでしょうか?


間違ってたらごめんなさいね。

私的にはそんな風に感じるのです。


いつからだろう。

私たちが思いっきり自分を尊重しながら相手も尊重できるようになったのは。


結婚当初から仲の良い夫婦ではあったのですが、やっぱり私も上記の様な時期がありました。

「ちょっと!わかってよ!」

「私の話をちゃんと聞いて同意してよ!」

「あなたの意見はちょっと受け入れられません。」

「私にはわからないよ。あなたの価値観が。」

そんなことをうっすらと思っていたように記憶しています。


もう何年前になるのでしょうか。

私は『観念』という言葉を知りました。

この世の全てが『観念』で出来上がっていると。

この『私』すら観念だと。


過去に私と亮一さんの間で繰り広げられた会話の中で、こんな回がありました。


私「いや、私さぁ、人の話しを聞くのが好きなんだよね。でも、時に話しを聞きすぎちゃって疲れちゃうときもあるんだよね。で、ちゃんと聞けなくなっちゃうときがあるの。そんな時私って薄情だなぁって思っちゃうんだよね。」


亮一さん「そうなんだね。確かにゆっきぃは人の話しを聞くのが好きなのかもしれないけど、その『私』すら観念だし、ていうことはその『相手』も観念なんだよね。だから『私は薄情』って思ってる『私』も幻想だしどこにも実態がないんだよね。」


私「ぬっ!!!私すら観念!!!ていうことは人の話しを聞くのが好きも観念だし、『疲れちゃう私』も観念?!!そしたら『薄情な私がうんぬん』って恥ずかしさしかないじゃん!!実態がないことをぐちゃぐちゃ考えてるってことじゃん!!」(実際身体は疲れるのだけどね。)


亮一さん「うん。そうだよーーん。笑」


私「んもーーーー!!ちっくしょーーーー!!わっははははーー!はっずかしいーーー!!」


伝わるでしょうか?


いつしか私たちは『0からの視点でモノゴトを観る』ということをやり始めました。

どちらから始めたのかは今となってはわからないくらいだけれど、亮一さんと私の性質を比べると私の方がストーリーにハマりやすい傾向にあります。

私はドラマ好きだし物語大好きなものですから。

でも、それをどこか俯瞰している目が常にあったのだけれど、亮一さんの方がさらにそれに輪をかけてフラットな目で常に『0視点からからモノゴトを観る』がとても得意です。

なので私は亮一さんに今も教わっていたりします。(私の師匠が亮一さん。)


この『0視点からモノゴトを観る』ってとても難しいのだけれど、これをやり続けていくとあることが起こります。(私が完璧にそれができているわけではないということを補足しておきますが。。)


それはね

全てのことが人のせいにできなくなる。

相手によりかかることができなくなる。


ってことです。

これはいいのか悪いのか。

依存的な人には悪いことになるのかな。


例えば。

私には「結婚したら女はつつましく堅実でいなければならない」という観念がありました。

私の母親がそんな感じの人だったからなんだけど、これは無意識のうちに発動していた観念でした。

結婚当初はこれを無意識に発動させていたので、「こんなに頑張ってるの!亮一さん見て!!」のアピールがやたら強かった。


『家事は女が完璧にやるもの』

『やりくりをきちんとするのが女の役割』

『仕事をしてても家事は女がちゃんとやるもの』


私の中にはこんな観念がありました。


とある時、「こういう観念が私の中にあるな」と気付いた。

これはいろんなところから長年にかけて刷り込まれた観念です。


まず気付けたことが奇跡のようなのだけれど、次にすることはこれでした。


「それほんとう?」と疑ってみる。


自分の持っている観念に気付く(ここめっちゃむずい)→それを心から疑う。(これもむずい)


なぜ女が家事をやらなければいけないのだろう?

なぜ女がやりくりをしなければいけないと思っているのだろう?

どうしてそんな風に思っているのだろう?

で?

それほんと?


さて。

ここで『ほんとうの自分探し』『自分を大切にする』が大好きな女性がやりがちなことがあります。

この後です。


「あれ?女が家事をやる必要なんてなかったんだ!私の想い込みだったんだ!私は私を大切にする!私は家事をほんとはやりたくなかったんだ!

だからもうやりません!!だって私は私を大切にするって、ほんとうの自分を大切にするって決めたんだから!!」

と一方的に決めて暴走するってやつです。

で、相手の男性に受け入れてもらえないと「わかってくれない!!」と怒る。

ヒステリックな女の出来上がりです。


これは『0視点でモノゴトを観る』に全然なっていないのがわかりますでしょうか?

これはただ『自分を大切にする』という綺麗な聞こえの良い言葉で早急にまとめようとして考えることを放棄したバカです。(厳しい?ごめん。)


とことん観るんです。

もう限界!ってとこまで。

『私』すら観念だっていうところまで観るの。


するとほんっとに全てが、この世の全てが観念だったってことに気付けるんだよね。


そうするとさ

「なんでわかってくれないの?!」とぉ~~~思っている『私』すらいなかった!!!

ってぺこぱ状態になるんだよね。(ぺこぱ知らない人いたらごめん。)


「私がこんなに訴えているのに全然聞いてくれないなんて愛してないんだ!!きっと相性が悪いんだ!!!」とぉぉ~~~思っている『私』ってどこにいるんだ?いったい?はて?



と、コントのようになるんだよね。


これを私たちは夫婦でやっているので、亮一さんが言うような「気を使い合う二人」ってことになるのでしょう。


いや、もちろんねイラッとすることもあるんですよ。

「んもう!わかってよ!!」と思うことだってあるんですよ。

観念ってなくならないのでね。

でもね、それってだいたい他に原因があることが一瞬でわかっちゃうようになったのですよ。

(ただ疲れてるだけだったり、まだまだ持っている強い思い込みのせいだったりね。)


私がたまに「もう!!なんでこれを亮一さんがやってくれないの?!私ばっかり!!わかってくれてない!!」と一人でイラッとする時ってだいたい首が痛い時や、たくさんやらなきゃいけないことが詰まっている(と思っている)時です。笑


亮一さんかんけーねーじゃん!!

首痛いだけじゃん!

勝手に忙しくなっちゃってるだけじゃん!!


はい。

1人コントです。


でも、これに気付けるようになったのは何度も何度も『0視点からモノゴトを観る』を亮一さんにスパルタ教育されたからと、何度も自分でも練習したからです。


(特に)女性って、『起こった出来事(現実)』と『感情(個人の観念)』を切り離してみるのがとっても苦手じゃないですか?(私含めてね)


よくある話しなんですが、例えばね☟

「旦那が山盛りに積んであるとりこんだ洗濯物の横でゴロゴロ寝てるんですよ!信じられます?私は他の家事や子どもの世話で忙しくしてるのに、横にとりこんだ洗濯物が山盛りなのに知らんぷりしてゴロゴロしてるんですよ!!畳もうともしないんですよ!普通わかりますよね?普通見ますよね?まったく私のこと助けようともしてないんですよ!!もーー信じられなくて!!きっと私のことを家政婦かなんかだと思ってるんですよ!愛してなんかないんですよ!!きーー!!」


こういうのよく聞きません?

さてさて。

上記のたとえ話し。

どこがどうこじれているかわかりますか?

これ、どうやって紐解きます?


これを『事実』と『感情』にわけるとこうなります。


事実☞旦那さんがただゴロゴロしている。(とりこんだ山盛りの洗濯物の横で。)

感情☞洗濯物が山盛りなのに気付いてほしい。→気遣ってほしい。→気付いてくれなくて悲しい。→私のこと見てくれなくて寂しいし悲しい。


こんな感じでしょうか?


ゴロゴロしている旦那さんがそこにいる。

それを観ている私がここにいる。

その私は旦那さんとうまくコミュニケーションをとれなくて悲しいと感じている。(らしい。)


「家政婦だと思っている」も「洗濯物を畳もうとしない」も「普通気付くでしょ?」も「横にあるのに気付こうともしない」も「愛してないんだ」も


まーーーーーーったく事実ではないんですね。

ただの感情であり、思い込み(観念)。


そこに自分で気付いていけるかどうか。

「それはほんとうのことか?」と疑ってみる視点とはこういうこと。

そしてそして、その感じている『私』すら疑うのです。


すると「ん?えーと…私、首が痛いだけだったぁーーー!旦那さんと洗濯物と私を愛してないって全くかんけーなかったわーー!!こりゃ一本取られたな!!わっはははーー!」と…


なることも、ある。(なかなかそうなれない時も、ある。笑)


私は『起こっている出来事(事実)』と『感情(観念)』を切り離して観る、ということをずっとやり続けた結果、


感情の揺れ動きを人のせいにできなくなりました。(私の観念がそうさせるのだからね。)


ただの思考の産物(観念の産物)である感情を人のせいにしてぶつけることができなくなりました。


これがいいとか悪いとかの話しではなく、私は今のところこうだということです。(変わるかもしれないけどね。)


私は思います。

感情をぶつけ合うのが魂の繋がりを強化するとか、それが恋愛だとか、感情をぶつけ合ってこそ信頼関係がつくれるとか、

そんなもんただの『酔っぱらっている』状態なのではないか?と。

その状態に酔っているだけなのではないか?と。(酔っぱらうのって気持ちよいよねぇ。)


人はとことん孤独であり、1人です。

『私』は『私』のことしか一生知ることができないのです。

その『私』すら曖昧模糊としていて、どこにも実態がないのです。


さあー

ややこしくなってきたでしょ?


さてさて。

『私』すらどこにいるかもわからないんだからさ、

「意見の相違」ってどうやったらできるの??

『私』も『相手』も曖昧模糊としすぎていて、ただのイメージみたいなもんなんだよ。


それなのに起こるいざこざ。

意見の相違。

ムカつく出来事。

肚の立つ言動。


それってどこからやってくるのかね?


はい!!

かんねーーーーん!!!(観念)←無限ループ。


落ち着いて解体していこう。

ムカつく気持ちが湧いたらチャンスだよ。

そのムカつきをジッと観ながら解体していこう。

すると気付くよ。

自分の持っている無数の観念に。


私はどこにいる?

相手はどこにいる?

ムカつく気持ちってどこからやってくる?

それはどうして?

そして


それはほんとう?


エゴは言います。

「そうだよ!!これがほんとうのことじゃなくてなんだっていうんだよ!!」

その声を聞こう。

エゴを自分だと思わないでね。

エゴは自分の一部だよ。

エゴで話すとエゴが返してくるんだよ。

これが『受け入れられない意見の相違』だと私は感じています。


ちょっとわかりづらかったかな?


こんな偉そうなこと書いているけれど、私はまだまだひっかけ問題にひっかかります。

アホなんだな。私。

アホな私は今日も観念まみれで生きてます。

そこにできるだけ気付きながらねー。


さーーて!

早く亮一さんの話しが読みたい!!


りょーいちさーーーーん!!

答えて答えてーーー!!








藤山家嫁ゆっきぃ 最愛の旦那さん亮一さんと最愛の娘(7歳)空さん、義理母きみ子さんの4人&愛猫2匹でめっちゃ幸せに暮らしている。亮一さんと私、双方から1つのテーマについてやりとり形式のブログを書き綴っていきます。 夫婦のこと、SEXのこと、子育て…亮一さんの面白い視点に注目!