経験は人と人とが分かり合う時にどのような役割を果たすのか (メモ)

経験は人と人とが分かり合う時にどのような役割を果たすのか。

分かり合ったと思えるのは経験の一致や、一致した経験から演繹された事実が一致するとき。

言い換えると、帰納的に導かれたものが一致するか、
それが一致しないときには演繹的に分かり合う。

経験は帰納的にものを導くために役割をはたす。

もうひとつは、ひらめき、つまり、演繹的な理解のための補助として機能する。

具体的には、自分の考えに対して、おじいさんが経験的にそれはやめとけというが、それで共通認識はできない。共通認識を作るためには、おじいさんが経験を分析して、それをヒントとして、演繹的に言いたいことを導けないと客観性が生じない。

逆に、演繹的に導かれた事柄をあいてが理解できない場合は演繹的に理解を構築するための、つまり概念、論理の獲得を追体験できるようなパッケージを作る必要がある。

なお、以上で述べている分かり合えるというのは
立場が入れ替わったなら自分も同じことを思う、というレベルでの分かり合う、である。

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