責任の生成ー中動態と当事者研究

「<責任>の生成ー中動態と当事者研究」を買いました。
彼女が『「利他」とは何か』を借りてきていたので、以前から気になっていた中動態の概念についてざっくりを捉えたく、國分先生のパートを読んでみたところ、非常に中動態の概念が、今まで私が感じてきたACに関する生きづらさに連結するような話だと感じ、さっそく書店に赴いて本書を読んでみることにしました。(「中動態の世界」は難しいという評判だったのでパスしました(^-^;)
その中でさっそくとても興味深い話がありました。
ある國分先生のシンポジウムで、先生が「自由意志など存在しない」という話をされたとき、それを聞いていた犯罪の加害者の方が、質疑応答の時に「はじめて罪の意識を感じることができるようになった」と涙されたというエピソードです。
國分先生は、彼の中で生じた現象について、今までずっと「お前の意志で犯罪を犯したのだから反省しろ」といろんな人に言われ続けてきたから、逆に「自由意志など存在しない」と聞いて、意志が免罪されたときに、逆に自分が犯した罪を引き受けようとする責任感が生まれたのではないかと分析されていました。
つまり、自分の意志ではどうにもできない部分にまで、「責任をとれ、反省しろ」と言われてしまうことが、却って責任感をいだくことを阻害するわけです。犯した罪について、深く理解し、自分の中で肚落ちしなければ、同じ罪を繰り返すことにもなり、責任感が生まれるということはとても重要だと思います。その責任感の発露を期待する側の立場の人が、結果的にその機会を摘み取っていたというのは逆説的でもあります。
人間には自分の意志でコントロールができない領域があり、そこに責任は取れないのは確かでしょう。今回、責任が取れない部分について意志が免罪されると、却って責任感が芽生えるという点は非常に重要だと思います。
以前、薬物依存症者が、薬物を絶つプロセスの中で、必ず薬物に手を出すという話を読みました。その場合、薬物に手を出したことが、回復のプロセスを順調に歩んでいる証でもあるわけです。しかし、薬物に手を出したから、その時点で再び逮捕してしまったりすると、うまくいく治療もうまくいかなくなってしまうわけです。
治療プロセスの中で、薬物に手を出すことは、意志ではどうすることもできない領域です。
本人が薬物をやめたいという意志の強さに関わらず、それは通ってしまう道なのですから。つまり、意志を免罪すれば、依存症者には、責任感が生まれることが期待でき、本当の意味での治療に繋がると思います。
犯罪加害者の例からうかがえる、責任感が生まれる心理プロセスや、また、薬物依存症者が、プロセスの中で一度は手を出してしまうというメカニズムの理解のいずれに共通しているのは、私は「愛」だと思います。
犯罪加害者のかたも、國分先生の講演に愛を感じたのだと思いますし、回復過程にある薬物依存症者に治療者が愛あるまなざしを注ぐなかで、一見、回復過程に逆行する行動がされるということが明らかになったのだと思います。
人間のメカニズムを理解するための根底には、愛が必要だと言うことを感じました。


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