先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 宇田川榕菴- ⑤シーボルト事件) 29 #078
みなさん、こんにちは。
私は、先日、職場の玄関を掃除していた時、イイものを発見しました!
羽が葉っぱ(コノハチョウ)の、蝶の残骸!
「おぉ!」ちり取りにサッと入れて、素早く机まで持ち帰り、紙に包みました。
触り心地は羽なのでホワホワです。
葉っぱ柄の方を、ひっくり返してみますね。
こんな事に喜びを感じています。んー(-_-)、まぁいっか(^^)
さて、本題、岡山県津山市の歴史のお話です。
江戸時代の蘭学者、宇田川榕菴とドイツ人医師シーボルトとの交流の続きです。
良かったら前回のお話もどうぞ。
今回はシーボルト事件についてです。事件を知った榕菴は……も話の最後に出てきます。
※事件の内容を手書きで書いているのですが、線が細く読みづらいかもしれません。ごめんなさい。
1.シーボルト事件を簡単に…
1823年(文政6)年、長崎出島にやってきたシーボルト。1828年、5年間の任期を終えて帰国する際、日本地図や将軍家の家紋(葵の紋付)の着物などの禁制品を持ち出そうとしたことが発覚。
シーボルトは、1年間軟禁状態で訊問され、翌年、国外追放、再渡航禁止になりました。
これに関わった多くの日本人も処刑されました。これがシーボルト事件です。
2.シーボルト事件を詳しく
経緯
シーボルトが来日してから3年後の1826(文政9)年1月、シーボルトは将軍に挨拶するため江戸参府に出発しました。旅の途中、シーボルトは各地の蘭学者と交流し、江戸に滞在していた37日間に多くの人と面会しました。
その中に、幕府の天文方で洋書の翻訳を担当していた高橋景保(かげやす)もいました。シーボルトは出島に戻ってからも景保と手紙で交流を続けました。
主な登場人物
事件の内容
シーボルトが来日して、5年が経つ頃…
間宮林蔵への手紙の内容はこうでした。
シーボルトは間宮に江戸で一度会った?程度でしたが、
勘定奉行所は、内容を調べ、出島のオランダ商館長へ送り返しました。
シーボルトは「え??今まで、たくさんの日本人と親密に交流してきたのに!?」と当惑しましたが、
この件は、これで落着したと思われました。
↓「蝦夷図」高橋景保編 国立国会図書館蔵
シーボルトはもともと…1828年
そして、
シーボルトは1年間、出国禁止となり厳しい取り調べを受け、所持品は押収。翌1829(文政12)、国外追放と再入国禁止が言い渡され、12月30日に日本を去っていきました。
高橋景保は、過酷な取り調べにあって獄中で病死しましたが、それでも許されず遺体を塩漬けされ死刑判決を受けました。景保の2人の子どもたちは島流しとなり、関与した門人たち50人以上が処罰されました。
事件の裏では…
高橋景保はシーボルトから、クルーゼマンシュテルン著『世界周航記』もらっていたそうです。そのお返しとして、禁制品を渡していたのです。
さらに…
青いの紋服は、江戸で開業している眼科医、玄碩(げんせき)が与えたものでした。眼科の治療には、散瞳薬(瞳を開ける薬)が必要不可欠で、玄碩は長年研究していましたがどうしてもわかりませんでした。玄碩はシーボルトに懇願してその処方を聞いたところ、シーボルトは秘法を教えてくれたのです。玄碩はシーボルトの欲しがっていた将軍拝領の服を与え、厚意を謝したのでした。
多くの人が処刑された中、榕菴は?
シーボルト事件で処罰された日本人の中には、通訳や画家、鳴滝塾の優れた教え子たち、長崎屋の主人までも入っていました。
榕菴は、高橋景保の家で翻訳を共にしていたので、おとがめを心配して「この翻訳は景保とは無関係で、訳者たちの一存でおこなっていた」という弁明書を、宇田川玄真、榕菴、大槻玄幹の連名で書き、当分の間、翻訳を中止していたそうです。
3.シーボルト2度目の来日
1853(嘉永6)ペリー来航によって、日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除されました。
シーボルト事件から30年後の1859(安政6)年、シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日しました。
長崎に到着したシーボルトは、なつかしい鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・いねたちと交流しながら日本研究を続けました 。
1862年、シーボルトはオランダの公務から退き、生まれ故郷ヴュルツブルクに戻り、1866年、70歳の生涯を閉じました。
最後の言葉は「私は美しい国、平和の国へ行く」だったと伝えられています。
4.シーボルト事件を動画で
シーボルト事件と周りの出来事が、わかりやすく解説されています。
注)動画内で、「シーボルトが帰国する船が、猛烈な台風で座礁し、その船の中から禁制品が見つかった」と言われていますが、当時の蘭館長の日誌の調査により、台風襲来時には、シーボルトの荷物は積み込まれてなかったことが明らかになっているそうです。
高橋景保の人生については、この動画が興味深いと思いました。
5.次回のこと
次回は、前述した中↓↓にもある「幕府の天文方」についてです。
宇田川榕菴、養父の玄真も天文方で、翻訳の仕事をしていました。
「天文方って何だろう?」と思い調べると、とても興味深いことがわかりました。
“天文方の現在の様子”を、東京在住の親戚に頼み、写真を撮ってきてもらいました。その写真も紹介しますね。
次回もよろしくお願いします。
【参考文献】
『岡山蘭学の群像1』山陽放送学術文化財団
2016年4月
『シーボルトと宇田川榕菴』高橋輝和 平凡社 2002年2月
『目で見る津山の洋学』 津山洋学資料館 昭和53年3月
『シーボルトと岡山の洋学者たち』津山洋学資料館 令和2年10月
『江戸の科学大図鑑』太田浩司.勝盛典子.酒井シヅ.鈴木一義監修 河出書房新社 2016年5月
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