〜だっせん〜ももたろうを追いかけたい ③ きびだんごの歴史【前編】#049
私は岡山生まれ、現在も岡山育ちです。
岡山と言えば。みなさんは何を思い浮かべますか?「何じゃろか??」と思われる方もいるかもしれません。
1.岡山名物きびだんご
岡山自慢のひとつに「きびだんご」があります。岡山のお土産ランキング(じゃらんニュース)でも1位。
前回の記事では、数ある中から9種類のきびだんごの食べ比べと、きびだんご作りに挑戦しました。
岡山のきびだんごは現在の形になって150年以上の歴史がありますが、なぜ、きびだんごが岡山の名物になったのでしょうか。
その疑問を明らかにしたくて、今回はきびだんごの歴史について調べました。
※「きびだんご」「吉備団子」「黍団子」etc…ありますが、文献の文字を参考にして記します。
※「岡山と桃太郎と吉備団子」はセットで登場しますが、これらの繋がりは後日詳しくお話する予定です。
2.きびだんごの“吉備と黍”
きびだんごの「きび」は、古代「吉備」国が元になっているようです。
古代吉備国は、現在の岡山県(備前.備中.美作)と広島県東部(備後)を合わせた地域です。
「古事記」の国生神話によると、阿波(粟)や小豆島など五穀の名の付いた国が誕生した頃に吉備国も生まれています。吉備国は黍の多産地で、吉備(黍)と言う名になったと考えられています。
3.はじまりは諸説あり
①吉備津彦命説
吉備津彦命(桃太郎の話にも出てきます)は、崇神天皇の勅により四道将軍の1人に選ばれ、吉備国を治めるため海路西征しました。そして、明神岬(みょうじんばな)の浜辺に着きました。
古代、この地域は海だったことがわかります。
↓↓現地に行ってみました。
この岬に老漁夫が住んでいて、命をお迎えし黍団子を差し上げたところ大変お喜びになりました。それがきびだんごの始まりとされています。
②備中吉備津宮発生説
室町時代、備中吉備津宮での直会(なおらい)でお土産として吉備(黍)団子が配られました。しかし、日持ちがわるく携帯に不便なことから製造は廃止。(⭐︎⭐︎当時のきびだんご…塩入りの黍の団子。砂糖は貴重なものでした)
③浅草寺門前で売り出した説
江戸末期(1818〜1830 、1859年の説も)、江戸浅草寺の門前で、武蔵屋桃太郎という者が三味線太鼓に合わせて餅をつき、「日本一 吉備団子」を売り出しました。
※写真は都内在住の親戚に撮ってもらいました。彼曰く「浅草寺門前は、仲見世のことかな」。
浅草寺に通じるこの仲見世で、武蔵屋桃太郎は岡山の「日本一 吉備団子」を売り出したのでしょう。すると…
これが江戸の大評判になり、売れるわ売れるわの大繁昌。これを真似する店が増え、130軒にもなったと言います。
また、岡山藩士が参勤交代で江戸浅草寺門前町で、桃太郎姿で黍団子を売り、大評判であったそうです。
ここでおもしろい発見がありました!!
(⭐︎⭐︎当時のきびだんご…穀類と水を混ぜ小さく丸めて蒸したものにきな粉や餡をつけたもの)↓↓を絵にするとこんな感じかな?と思うのですが…
現在の仲見世に、きびだんご屋さん(浅草きびだんごあづま)があるそうで、売られているきびだんごを見ると、当時のものと類似していると思いませんか??
調べてみると「江戸時代仲見世に実在した門前のきびだんごを実演販売」と書かれていました。
「武蔵屋桃太郎や岡山藩士が売った岡山のきびだんご」が受け継がれたものだとしたら、すごく興味深いし、とっても嬉しいです!
“吉備団子”ではなく、“浅草きびだんご”として輝いているのも素敵だなと思います。
一方、岡山のきびだんごは、さらに形を変えていきます。その話は以下で。
④これが岡山の定説
1855(安政2)年、唐津屋の武田伴蔵の祖父伴侶翁、信楽屋の隠居、狂歌師笹野一方の3人が相談し、初めて※赤色の掻餅(もち米を蒸してきな粉などをまぶしたもの)のような四角形の菓子を製造し親戚に配りました。
販売する目的はなかったものの「吉備だん粉」と名づけました。この話が岡山城下に広がり評判に。武田伴蔵の女(妻?)に「相歓堂」という吉備団子屋を始めさせると、買いにくる人たちも増えてきました。
しかし、その女主人が亡くなり、廣榮堂の武田浅次郎が1856(安政3)年、営業を引き継ぎました。
ここで、またまたおもしろい発見が!!
上記した※赤色の掻餅(四角形の菓子)が気になり調べていると、類似している「北海道きびだんご」に出会いました!
「北海道きびだんごは、岡山のものとは異なり、北海道開拓にあたった屯田兵の携帯食をもとに1923(大正12)年に発売されたもの。開拓時の助け合いの精神と、その年に起きた関東大震災復興の願いを込め、事が起きる前に団結して助け合うという意味で「起備団合」と名付けられた」らしく、これもすごく興味深い!
話は岡山のきびだんごに戻りますね。
廣榮堂の武田浅次郎はアイデアマン!
吉備団子が脚光を浴びたのは、1886(明治19)年。明治天皇の岡山行幸の時、武田浅次郎が吉備団子を献上し、御製を賜りました。「日の本にふたつとあらぬ 吉備団子 むべに味ひに 名を得しや是」
1891(明治24)年、山陽鉄道会社が神戸ー岡山間、1901(明治34)年、神戸ー下関全線が開通。浅次郎は、吉備団子販売拡張に鉄道に目を向け、岡山駅での吉備団子販売に踏み切ったのです。
従来のきびだんごは、日持ちが悪いため、現在のものと同じ求肥の吉備団子に改良しました。
この駅での立ち売りが好評で、店の規模が拡大しました。
⭐︎ここで、きびだんごの日持ちについて見てみましょう。
現在のきびだんごも日持ちはしません。
日清戦争の凱旋将兵に人気
1895(明治28)年、日清戦争が大勝利に終わり、将兵が宇品港(広島県)に凱旋してきました。この時、浅次郎は広島へ行き、桃太郎の衣装をまとい、「日本一の吉備団子」と書いた旗を持って、帰還将兵たちに売り込んだのです。そして、
と呼びかけました。
岡山駅へ列車が入ると、黒山のように買い手が押し寄せ、出征時の餞別返礼としてまとめて買う凱旋将兵が多くいたそうです。1箱(6個入)3銭の吉備団子を50箱買う人たちも。
桃太郎のきびだんごは縁起物として人気でした。
苦難の時代へ
明治34年には、きびだんごを作る菓子店が12軒にもなり、廣榮堂の当主も2代目、3代目と代わる中、日本は戦争への道へ進みます……。
【前半】はここまでにさせてください。続きは後半で。
【後半】は、戦時中の廣榮堂ときびだんご、それ以降の歴史をたどっていきたいと思います。
4.素敵なおまけ
とっても幻想的です。夜の仲見世も良いですね!
読んでくださりありがとうございます。【後半】もよろしくお願いします。
【参考文献】
『桃太郎は今日も元気だ』おかやま桃太郎研究会編 岡山デジタルミュージアム
『おかやまの桃太郎』市川俊介著 岡山文庫
『岡山桃太郎』市川俊介著 岡山リビング社
『桃太郎話みんな違って面白い』立石憲利著 岡山デジタルミュージアム
『写真集 岡山県民の昭和史』山陽新聞社
『写真集 岡山県民の明治天皇大正』山陽新聞社
『妹尾町の歴史』
『喜遊笑覧』『きびだんご考』
廣榮堂HP
仲見世HP
天狗堂宝船HP
Googleマップ