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雑記③

「一番最初に恋愛感情を向けられ付き合うに至った女の話」を書き記したら思いのほか過去が過去になってくれたので、二番目くらいにちゃんとした形で付き合った女の話を書いてこの人もしっかりと過去にしようと思う。未来の話をするために、過去をさかのぼるのは、坂道を後ろ向きでのぼっていくような感覚がある。

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翔子の次くらいに印象深い女の話である。

(もっとも印象深い女の人の話もあるが、まだ過去に至らないので、書かない)

この人の人生の一点を奇しくも変えてしまった責任をわたしは今でも当然とれずにいる。

中学三年生だったわたしは、ありていに言えば失敗した高校受験のため、女子高に通うことになる。家から片道約三時間。田舎の鈍行を乗り継いでバスに乗り、海沿いの学校へ通うことになったが通うことに困難を極め、結局その学校の寄宿舎に身を寄せることになる。古い寮であり、部屋は薄いパーテーションで区切られた四畳もないパイプベッドと机とクローゼットのみが置かれた独房のような状態である。入口がカーテンであり、独房より開放的であった。この狭い自室でわたしはしばらく生活することになる。

入寮初日の朝、朝六時半に爆音でケツメイシの「サクラ」が流れた。この時、生まれて初めて飛び起きるということを体験した。十代半ばの繊細極める乙女たちの中にあって、ケツメイシの選択は甚だ疑問ではあったが、この爆音の中で二度寝をする者もいたので女子という生き物の中にも、生きることに対してたいそう図太い類もいる。

この強制的に起こされる不愉快に耐えかねて、わたしは自主的に爆撃にあう3分前に起床する癖がついた。実際、爆音の15分後には朝の清掃が行われるためにお手洗いと洗面所が混むので、それを回避するためのことでもあった。

高校に入ったら、部活をすると決めていた。中学時代に付き合った彼女のうちのひとりが演劇を見るのが好きで、わたしも演劇をしてみたいと思っていた。可能かどうかは置いておいて、脚本を書いたりしてみたかったので、わたしは演劇部に入部をする。

そしてそこでリオと出会う。リオはひとつ上の先輩で、顔つきも身体つきも薄い人だった。姿勢がやたらと良く、目に生気がないのに、笑う時は大変よく笑う人だった。

顔を見ただけで、存在を認めただけで「同じ人」であることをお互いに察知する能力を、ごくたまに人間は発揮する。わたしとリオはこの能力のおかげで、縦社会の厳しい女子高の中であっても、それらを無視してよく二人で昼ご飯を食べ、登下校を共にした。

リオとわたしは時々遠いお互いの家を行き来した。お互いの家族とも何度も顔を合わせたので、うちの祖父などわたしの顔を見るたびに「リオはどうした」と聞く始末になった。

わたしとリオのおしゃべりは、お互いがそれぞれ受けた相当な失恋の痛手を癒すということに尽きた。それから述べ着く暇なし、恋人関係になるに至る。リオはわたしが抱き抱かれた最初の人となる。これは、さまざまな意味を持って。

その後、密会場所である校舎裏で彼女に過去の恋人の話をして泣き咽いで肩を抱き合っているところを教師に見つかったり、彼女に片思いをしていた女生徒から体操着を引き裂かれるなど、たびたび教職室に呼び出しを喰らう羽目になる。今思えばうらぶれた青春らしい。そしてたいそういろんな人に詫びなければいけない気がする。

そしてわたしはこの時、ふたつピアスを開ける。

鏡も見ずに自力で空けた穴なので、ひとつは妙な位置にある。

好きになり付き合うに至った女の数だけ耳に穴をあけることにしなさい。

そうやってある人に言われたのだ。

その人曰く、わたしを好きになった人はあなたを幸せにしようと傷付いていくばかりで、わたしを恨むしか自分を許す方法を見つけられないのだそうだ。わたしはそれを聞いたとき、「海が青いのは太陽のせいです」と言われたような途方もない未知があることを知った。実感に及ばない、知識としてわたしはそれを今でも覚えている。そしてわたしは都合現在に至るまで、五つの穴をあけ、四つの穴に小さな安いピアスを入れて過ごしている。

ピアスを開けた一年後、わたしが高校二年になる夏までリオとの恋人関係は続き、それから彼女は京都の大学へ進学を決めた。わたしが京都の芸術大学へ行くことを公言していたため、彼女も同じ大学の映画学科へ進学を決め受験に及んだのである。彼女のもとに合格通知が届いたのは、わたしと別れた直後であった。

なぜ別れるに至ったかの仔細は覚えていないが、おそらくこちらから別れを切り出したのだ。わたしは高校生活が一年目が終わる直前に、小学校低学年から患っていた自律神経失調症を拗らせ、幻聴と幻覚を来して白昼に突然の眠気に襲われるようになった。不眠が続き、塞ぎがちになって日常生活を送る体力がなくなっていくと、当然異常を察した親につれられて医者に掛かった。

「脳の成分の出し入れがちょっと人よりうまくコントロールできないだけ」と言う医者の弁に則り、脳内分泌成分をむりやり出したり抑えたりする薬を飲み、眠れるようにはなったが始終気怠かった。道を歩いていると突然世界が膜を破ったように鮮明になりめまいを起こすなど日常茶飯事だったが、まだこの状態が不正常であることは理解できた。わたしは病気について知ることがおそろしく、今になって振り返ると、たいそう面倒な病のようで、わたしは自分が本当に名前を付けられるような病にかかっていたか信じられずにいる。

誰にも言えず、親兄弟や友人の前では力を振り絞って何でもないふりをした。幻聴が幻聴であること、幻覚が幻覚であること。その単純なことを受け入れるのに労して本当のことについて寡黙になった。羅患の原因は今でもわからない。わたしはそれなりに幸せだと思っていたのだ。深く傷ついたせいだと皆が口をそろえて言うが、生きていれば誰だって深く傷付く。

それでもその時、わたしはとりあえず、誰かを好きでいるのをやめたいと思った。好きならばすべてを晒してくれというリオの可愛いお願いを叶えることがその時のわたしには難しかった。すべて受け入れてくれたリオを、わたしは無視するかたちで別れた。早朝の電車の中で別れを告げると、彼女は「ずっと好きだよ」とわたしの手を握って言った。わたしは笑った。そんなことあるわけがないと思ったのに、身勝手にうれしくなった。実際そんなことはなかった。彼女は高校三年生の受験のあと新しい恋人を作り、わたしとろくに口すら利かなくなる。それでも時折新しい恋人の話をしてくれた。京都にいったら、その人と共に住むのだと嬉しそうに言った。

わたしの高校の卒業式では、ロッシーニの三聖歌とグレゴリオ聖歌の「Kyrie」をごちゃまぜにしたものを斉唱するならわしであった。彼女が高校を卒業するとき、わたしと彼女の関係は冷え冷えとしていたのだが、わたしは卒業式で「krrie」を斉唱する最中ひどく泣けてきてしまい、最終的に涙を流して歌うことも困難を極めた。

卒業式のあと、彼女はわたしの教室にふらりとやってきて、手紙を寄越して去っていった。泣いた後のわたしの顔を見て「泣くなよ」と冷たく彼女に言われた。わたしは「泣かないよ」と言った。嘘ばかりついていた。

その後、彼女とは一度京都の大学近くで会った。言葉少なに数時間顔を合わせ、それきりである。語る最中、彼女はわたしに冷たかった。もともと愛想のない人なのであると彼女の薄い顔を見ながら思い出した。

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