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天海春香学会 学会誌Vol2 ネタバレ込みレビュー 第一回

ゆきますくです。おはようございます。
ただいま午前10時半です。こんな時間に何をしてるんだという発想は置いておいて……この前、Twitterの方でタイトルにもあります「天海春香学会 学会誌Vol2」の全作品レビューをさせていただきました。

しかし、公開アカウントであることからネタバレ回避前提でのレビューになったので、正直ちょっと語り足りないものもありました。そのため、ここまで見に来る人はそういないでしょ、ってことで今日はネタバレありで、語りたい作品だけ語るという、エゴの塊とも呼べるものを書いていきます。
常体・敬体が入り混じり、乱文になることはご承知を。正直自分でもどんなことが書けるのか今はまだわかっていません。また、ポジティブな内容ばかりではないことをご了承いただければ幸いです。不快な表現、言い回しなどございましたら、TwitterのDMにて該当箇所をご連絡いただければ、修正させていただきますので、ご承知ください。
それでは、語りたいものから順に語っていきます。今回は第一回ということで、主に物語(SS、小説、そのほかエッセイ等)を語りますが、ものによってはいくつか評論系も語るつもりです。

1.minecoP著「春香ちゃんを降りた日 ――或る元天海春香推しの回想――」

この作品の最初の印象は、「地雷か?」でした。
正直ね、こういうタイトルから奇抜なものを狙った感じ、あんまり好きじゃないのよ……。自分が書く時にタイトルはいつも何度も考えるっていうのもあるけど、それ以上に自分としてはタイトルは顔だと思ってるので、そういう顔は、奇抜なものよりいいものを出すべきじゃないかって思ってるのはある。

ただ、この作品はね、本当に面白かったのよ。作品として本当によくできてる。

視点が女の子なら、個人的に、描写は身体感覚的な部分が強く押し出される方がより女の子らしさを感じられると思っているので、そういう点で注目して読ませていただいたんだけど、その点をしっかりクリアしてて描写がすごいリアルに迫ってくる。全作品レビューでも述べたけど、技量が凄まじい。中学生、高校生としての少女の在り方みたいなものがありありと感じられる。
そしてこれがすごいのは構成で、まず天海春香という「普通のアイドル」と称されるアイドルと、本当の普通の少女を並べるという構図がよい。こうすることで、天海春香の「実は普通じゃない」が如実に現れてくる。それから、時系列。現代から一度過去に戻り、そのまま現代まで回想を進めてくるというシンプルな構図だが、同時に天海春香と私という二者関係を描くに最も適したものをチョイスしている点は素直に評価したい。
それから、起承転結の基本をしっかり抑えているのも分かりやすさという意味でよくできていると思う。ガチガチの文学ではなく、読者層が「読むのが好き」ではなく「天海春香が好き」なので、そういう読者の読むレベルに合わせる配慮が(意識的、無意識的、どちらであれ)できているというのは、分かりやすさという点でよい。じゃあどこがその基本を抑えてるって言える部分なの? って話なんだけど、それはクライマックスの作り方。クライマックスに、「天海春香は実は特別だ、ということ自覚した」ということをもってきたのがチョイスとして最高。テーマをしっかりと打ち出す構図。
さっきから言っているが、これがガチガチの文学として出されたなら、もう少し捻った方がいい、とか単調、とか言われるのかもしれない。でも天海春香という膨大なテキストに裏打ちされた、それだけで奥深いものを扱う上で、さらに読者層がライトだということを踏まえれば、これが最大限捻った構図とも言える。
しかも個人的な好みだけど、やっぱり天海春香学会に出す春香の小説ってのは、何か公式のテキストに裏付けされているべきだと思っているのよ。その点では、キラメキ進行形の歌詞をクライマックスの軸に持ってくるのがすごい好き。
それから、スクランブル交差点の液晶を眺める少女、という構図は、アニマス25話のラストでデレマスの渋谷凛が眺めている構図を想起させていて、そういう意味でも公式の裏付けがあるとも見える。こういう細かなネタを散りばめられるのも、二次創作のいいところ。そういうのを存分に活かしている本作は本当に面白かった。

個人的に、今回の学会誌で一番気に入ったのはこれ。むしろこれを書くために今回筆を執っていると言っても過言ではないぐらい。いや、過言か? わからん。とにかくすごい。
総合評価をあえてつけさせていただくなら、最高評価のSを問答無用でつける。そしてこのタイトルも、今思えば、雑記調のタイトルだからこそ、一昔前のブログのようなタイトルだからこそ、この親近感を感じる、身体感覚に溢れた文章がすんなりと入ってくるのかもしれない。

とはいえ、最後になったが、作者へ最大の敬意を。こんなに素晴らしい作品を読ませていただき本当にありがとう。

2.れぽてん著「Cleaskyと『笑って!』 〜ミリオンライブ6thライブツアーとASカバーがもたらしたもの」

全作品レビューでもいったけど、正直初見はあんまりいい印象じゃなかった。なんで? ってその理由は明確で、私自身、この「笑って!」って曲に思い入れがすごすぎることと、それから作品紹介の段階で見ていたのっけの文章で、わざわざ美也Pであることを「強調」したこと。いや、別に他Pは出すなって言いたいわけじゃなくて、むしろ大歓迎なんだけど、とはいえ「はじめに」からそんなに押し出さなくてもええやん、って個人的には思ってた。私は天海春香のPであって、〇〇のPではない、と他のアイドルの合同誌で私なら言うだろうか、と言われれば否だ。天海春香は、常にアイドルたちと共に前を向き、共に歩んできた。さらに、天海春香の「笑って!」が大好きだからこそ、天海春香の「笑って!」が持つストーリー性を大事にしてきたし、そういうのを常に抱いていたからこそ、こういうスタンスで今から考察されるのか、という一種の暗い感情があったのは、紛れもない事実だと、ここであえてはっきりと書いておく。

とはいえ、考察自体は見事だったと言わざるを得ない。

Cleaskyのストーリーの補完となるような「笑って!」の歌詞というその親和性が文脈を追えば追うほど明らかになる。このような、確かめれば自明であるという段階まで持っていける考察は、なかなかない。
私も文学部系にいるので論をよく書くが、論を書く際に最も大事なのは、オチだ。論のテーマ性と置き換えてもいい。これが論の評価の90%を占めると言っても、本当に過言でないくらい大事だ。この作品はこの点で非常に優れていると言わざるを得ない。
パート分け等からのストーリーの考察はもちろん、それらをベースとした推論などを展開しており、否定できないかつ明確な裏打ちのある推論であるためにすんなりと腑に落ちる。

特に注目しておきたい部分としては、「会いたいよ」のリンクであろうか。エレナがドラマCDの方で呟く声と、「笑って!」の一番最後の歌詞、エレナが歌う「それよりも、声が聞きたい、会いたいよ」が重なるというのは、この論がまったく筋違い、ということではない、しっかりとした論たりうるということを如実に証明しているし、私はそこで「おお」となって読み進め始めた。
まだメールの時代にできた「笑って!」は、メールのもつもどかしさ(受信を待つ感覚や、正しく送信できたかという感覚)があり、それによる「つながっているのにつながりきれていない」感覚があった。「笑って!」はそんな感情を歌っている歌詞なんだろうと、私は思っている。
そんなもどかしさを、現代に「物理的に会える距離で無くなってしまった」ことに重ねている。人と人の「会いたい」と思うその寂しさ、もどかしさ、取り戻したい日々を自分の中で重ねて歌っていると解釈できる。これがCleaskyの「笑って!」なのか、と気づいた時、素直に面白いと思った。そんな角度から解釈できるのかと思った。
同時にこれは私に書けない文章だとも思う。仮に天海春香が、百瀬莉緒が、ユニットとして他の765のアイドルの楽曲をカバーしようとも、私は恐らくその765のアイドルがその曲を歌うバックボーンを考察して重ねることに終始してしまうだろうと思うからである。私には、歌詞とパート分けという部分からカバー楽曲がストーリーのバックボーンになりうるという論など、思いつかない。

だから今回のこれは、あくまで「Cleasky論」なのだと思う。美也とエレナの二者としてではないのだと思う。ユニットとしての「Cleasky」に、美也とエレナがいて、そこに美也とエレナの感情が重ねられていて、言ってしまえば、「Cleasky」とは、公式が生み出したアイドルに、公式が生み出した劇をさせる、という、もうどう数えていいか分からないN次創作である。そこに、天海春香、ひいては「笑って!」はテキストとして大きな役割を果たしているという可能性の提示がある。そこに親和性がある。その二つの間に、それまで存在し得なかったこのような関係が提示できるということは、素直に嬉しいと思うし、感動した。

そしてこの論を提示してくれた作者には最大の敬意を払いたい。
新たなミリオンの可能性を示してくれて、ありがとう。
私はこれまで以上に、ミリオンを好きになれると思う。

そしてよければでいいのだが、これからも春香をよろしく。

3.フブキP著「理想を瓶詰め」

 本誌の物語類で描写の技量と構成について、読み手層まで考えると最強は先述の通り、minecoPの作品だろうが、純粋な構成力だけで考えるならば、間違いなくこの作品であると私は思う。

ちょっと男勝りな女プロデューサー(作中で春香のことを「お前」と形容するシーンがあるなど)という、中性的で幅広く共感しやすいポジショニング、さらにそのポジションは春香との距離感を近く感じやすいという性質まである。連載でない短編では、登場キャラクターの関係性をできるだけ手短に示さなければいけないが、その点でやはりこのようなキャラクター属性の構成がなされているということについては、本作は目を見張るものがある。

ではこの作品の何に共感しやすいか、といえば、やはり「複数作品にまたがる『天海春香』の存在を感じている人だからこその、ミリシタでの春香の捉え方」に関する感性だろうと私は思う。私なんてP歴たったの二年半ちょっとだが、それでも箱マスをプレイし、アイマスで卒論を書き、ニコマスで日々を過ごしてきた私にとっては、ミリシタの天海春香という存在はまだどう形容していいか分かってなかったのだと思う。いや、そう思って生きてきた訳ではなく、本作を読んで「ミリシタの天海春香とこう向き合うのか」と気づいた瞬間、自分はまだ分かっていなかったのだと気づいた。
ミリシタの天海春香を気づかせる上で大事になってくるのは、他のメンバーとのつながりと、それと同じくらい比重が置かれるべきPとの関係だ。本作はイベント設定からそれを忠実に描こうとしているように思える(感謝祭を使うなど、構成の段階から、天海春香だけを見ていようと他のアイドルの姿が必然的に目に映るようになっている)。その上で、Pと春香の二人での外出。先述したことがテーマなのだとしたら、これほどまでにばっちりな構成はない。脱帽の二文字だ。

ただ、ここで何故minecoPの作品と区別して考えたかというと(先述の流れで語りそびれたということも踏まえてここであえて述べさせていただく)、確かに同じ天海春香が持つ「儚さ」に言及している作品ではあるのだが(minecoPの作品でも、本作でも、視点人物との関係の長さが、春香への見方や二人の関係性を徐々に変えていくストーリーになっている)、本作のエンドはまさに「理想」だからである。

私たちは、天海春香に出会い、出会うだけでなく、いずれ別れる時が来る。
形を変えて付き合っていこうと、出会いがあるならば必ず別れがある。
それを私たちは本能で、無意識で、もしくは意識的に感じている。
だからこそ、minecoPの作品は、今熱をもった春香Pである人にとってもいずれ来る別れ、という風に捉えることができ、もしもの世界やこれから辿るかもしれない未来に想いを馳せることができる。

本作は、望まれて生まれたハッピーエンドのようなものだと私は思っている。
私たちが変わっていると自覚した時、春香はもう春香のままじゃない、春香をもう私と出会う前の春香のように見ることができない、と思った時の絶望を、天海春香なら、ミリシタまで見てきた天海春香なら、受け止めてくれる。それだけ天海春香という器は大きいのだと。そんな理想をまさに「瓶詰め」して、今はまだそれを取っておこうというように。

以上の点から、区別しようとも二つの作品は非常に似通っていると思うし、だからこそ私はどちらも素晴らしいと評価せざるを得ない。いつかこの二人とはお互いの作品を考察しあいたいとさえ思う。

さて、話を本作のみの話に戻すが、本作も歌詞を少しなぞる展開がある。「太陽のジェラシー」だ。この使い方が、妙に、これから来る不穏な空気を予感させるのだ。いや、何故明るい曲なのに予感させているって言えるのか、と言えば、わざわざミリシタ時空で感謝祭後という時期に、デビュー曲である「太陽のジェラシー」を持ってくる意味といえば、単純に懐古。つまり、振り返りだ。振り返りは、いつも終わりにやってくるもの。これは主人公の視点ではもしかするとここで天海春香との関係の終止符が近づいていることを予感している、ともとれる。もしここまで考えて選んでいるのであれば、さすがにもう非の打ち所がない。もし誰かがこの作品に難癖をつけようものなら、作者より先に私が阻んでやるという勢いさえある。それぐらい、このチョイス、使い方に本当にセンスを感じるし、そのセンスを素直に尊敬する。

改めて、本作を読ませてくださった作者に最大限の敬意を。
ありがとう。私も、こんな理想的な関係を描いていけるような、物書きになってみようと思う。


4.薫る風著「水曜日にはコーヒーを」

独特の雰囲気のある天海春香を、前回学会誌から引き続き描いているというのが、本作の第一印象。何が独特って、今回は特に感じたのが、日記調なのに書き言葉と話し言葉が混ざる点。リアルな天海春香っぽさを出しながら、それでいて書き言葉にある、目の前の景色から一歩引いた視点を演出する、独特の書き方である。例を挙げれば、話し言葉はいつもの天海春香の声で聞こえるし、書き言葉は、ミリオン時代のドラマシアターの春香の作品で、ビデオレターを読み上げるような春香のイメージで聞こえる。というか、これを感じなかった人は、今の例を踏まえてもう一度読んでほしい。かなりしっくりくるはず。

さて、じゃあ本作で語りたい点に移ると、前作同様、天海春香の周囲を描こうとしている点と、今回はさらにそれでいて内面を描くことに両立しにきたことである。やっぱりね、両立するのって難しいのよ。どっちもが中途半端になるから。いやマジで。何度もそれで失敗してる書き手が言うんだから間違いない、うん。
とにかく、お兄さんというオリジナルキャラクターを鏡のように使いながら、天海春香の内面に自己問答で答えていく構成も素直に上手いと思った。

それから作風がしっかりしているのもミソだ。
前回インタビューで語られていたように、身近なところに感じる天海春香という考え方がしっかりと軸になっており、その点では軸のブレなさという、書き手の基本中の基本でありながら、大方の人があまり意識せず書いているせいで疎かになりがちなこれをきっちりおさえてきている(以下、Vol1学会誌インタビュー参考)。

個人的には、本作含め、薫る風氏の作品はこういう構成上の基本をしっかりおさえてきているところに好感を持てる。確かに、これまで挙げた物語のようにダイナミックな構成ではないし、じゃあ感覚が鋭い描写や目の付け所が他と異なる奇抜な作品というわけでもない。
しかし、薫る風氏の作品は奇抜さはなくとも、基本をしっかりおさえてくる。それでいてやりたいことをしっかり両立させようとしてくる。もしかすると、それは春香らしさの演出かもしれないとも思うが(春香のような、突出した何かがなくとも、それでいてしっかりとおさえてくるあたりが)。
私はあまり作者読みという読み方が好きではないのだが、それでも、このような一定の作風で異なる試みをもった作品を出すことができる作者に尊敬の意を抱く。

もし次に出されるのならどんな作品なんだろう。
どうやって春香の内面をおさえてくるのだろう。
基本をおさえているとはいえど、それでもこうして先は読めない。作者の春香像がどのように描かれるのか、これからも楽しみだ。
最後になるが、本作を読ませてくれてありがとう。次回も期待しています。

5.やしま著「春風」

本作は前提設定が少しある作品。十年後の天海春香・星井美希という二人と、引退したプロデューサーを描く、重みある作品。先に断っておくと、別に好みでない訳ではないし、むしろかなり好きだったのだが……ひとことだけ苦言を呈させていただくとすれば、その十年の話が先に知りたかった……。いや、もしかしたら今後の学会誌で続きを書いてくださるのかもしれないが、まずそう言わせてほしい。それを知るだけで、きっと本作は化けるほど面白くなる。これは間違いない。

さて、じゃあ本作の話に移るのだが、本作は先ほど紹介した薫る風氏の作品同様の春香の一人称による進行の前半と、引退したプロデューサー視点の後半の大きく二部に分かれる。
まず前半で注目しておきたいのは、春香と美希のかけあいの滑らかさ。それから、春香の一人称の自然さ。先述した薫る風氏の作品では、世界観に入った独特の流れに合わせた春香像がしっかりあり、それの上で書かれていたから自然だった。その点に対して本作は恐らく十年という時の隔たりを感じさせない、天海春香らしさを押し出してきているようにも見える。意味合いが異なるので、どちらがよいと勝手に言い切ることはできないが、少なくともこちらの天海春香はどの場面に出てきても、きっと天海春香の言葉として紹介されて違和感がない。

個人的に共感を覚えるというか、俺もそうする! となった部分が後半だ。ベンチに腰を下ろす二人。シチュエーションは、間違いなく私でもこうする。このシチュエーションに近いものを、実際、既にVol1の時の「モノクロ・ドリーム」にてしているし。
ただ、ここで大きく舵を切ってきたな、と思ったのは、案外大事な部分を語っていない点である。行間を読む、という行為を要するということだ。これは賛否分かれるかもしれないのだが、基本小説はこの読み方をして初めて楽しめるものだと私は思っている。ただ、昨今のラノベ等がそういうのを必要としないものであるため、そういう読み方は廃れてきているような気もする。そういう意味では本作はかなり思い切った作戦に出たと思う。
特に、クライマックスの「旅に出よう」は、本当にそれまでの描写の中で、明確にそれに近づいているような雰囲気・描写・モチーフはない。ただ、流れから自然にその選択もあり得ると、そしてその空間は二人だけのものであって、私たち読者はただの第三者であるという事実を、まじまじと感じさせられる。ここで背筋がぞわっとした。構成と描写の両方がしっかりと考えられていて初めて為せるものだ。素直に尊敬。

あと個人的に考察しておきたいのはタイトル。これもかなり行間を読まされるもので、ここからは浅い考察に過ぎないのだが、前半より恐らく後半にその意味があると睨んでいる。旅のように、流れ流され、その場その場で温かい風を送り込んでいく。春がきたと伝える風。そんなイメージ。浅いな……。もう少し深く読みたいのだが、いかんせん情報が少し足りない。

最後になるが、本作のような素晴らしい作品を、投稿してくれて本当にありがとう。
読ませていただき感謝しかない。いや、尊敬もあるか。
とにかく、もしどこかでお話しできる機会があれば、是非一度語り合いたい。

6.匿名投稿「業務引継書」

匿名投稿の、業務引継書という名の怪文書。いや、悪い意味は決してない。ただ、SSとも、評論とも、小説とも、エッセイとも呼べない。アイマス世界の中にたしかに存在したであろうそれ、と言う他ない作品。

ゲームの攻略本のような感じすらする本作は、恐らく、箱マスPからの引き継ぎを意味する。となると、この作品の作者は箱マスで時間が止まっており、それを後世に引き継ぐというような内容を孕んでいるとも推測できる。
特に、人並みに恋をする、という風に書かれている点には、作者にはきっと何らかの意図があると見た。例えば、自分はそう思われてないと思いながらも、最後のラストコンサートの後に想いを告げられてしまったというような、不意打ち……いや、そうなるなら最初からその気があるかもしれないことを教えておいてほしかったと言わんばかりの、箱マスPの意図とか。

そう思うと、本作は、箱マスPが、最初に知らせておいてほしかったことの詰め合わせのようにも見える。ただ、同時に先述した「箱マスを後世に引き継ぐ」という意味合いとして、最後に「普通とは何か」という問いを残している。
現に、きっとあの箱マスの時から、今こうして天海春香と普通という二つの概念の関連性を考察する学会誌なるものが出ているのだから、その問いは永遠に「引き継がれる」ことになるのかもしれない。

私たちは結局、天海春香の何を見て天海春香をプロデュースしているのだろう、と思わざるを得ない。特にそう思わされるのは、本作に書いてあることが、いわゆる「当たり前」とも言えるのに、その全てが新鮮に思えること。人並みに恋をして、歌に思い入れがあって、そんなの、春香Pなら、春香について知っていると言える人なら誰でも知っているような内容を、こうして書かれると私たちは引き継いだ、と感じる。これは恐らく、終盤に書かれている、前任Pの春香への思い入れが原因だろう。
こうして改めて言葉にされると、私たちは不意をつかれ、その時にできた心の隙間に何かを埋められてしまう。今回、この作品ではその何かが、当たり前に感じる新鮮さ、そして天海春香という普遍のように見える変幻自在の未知の存在だった。箱マスPに出会う前と出会った後で変わってしまった天海春香、そしてそれから長い時を経て、ミリシタまで来て、あの頃とはすっかり変わった天海春香を見て、それから箱マスPの引継書という原点に帰ってくると、「天海春香はこうなんだ」と、初めて箱マスをプレイしたあの時以上に新鮮に感じるものがあった。
私はそう思わせてくれる本作に驚きしかなかった。

この作品はきっと新たな可能性というより、既存の確認という意味合いの方が強いのかもしれない。しかし、それでも、私たちは、十五年という長い期間輝き続けている天海春香という存在に対して向き合う時、もう既に離れていった春香Pたちから、こうしてひきついでいくのだろうと思う。

作者へ最大限の敬意を。
本作を投稿し、本誌で読ませていただいたこと、本当に感謝する。

終わりに

はい、長くなりました。ここで9500字弱。馬鹿かよ俺……。お見苦しい表現も多かったと思います。また、ポジティブでないくせに妙にわかりづらい表現してる部分とかもあったと思います。申し訳ない。ただ、これは私が感じた全てであることは間違いないと保証します。
もし何か不快な表現、不適切な点などありましたら、先述の通りですが、TwitterのDMにてご連絡いただければ幸いです。ただ、異議あり、と申し出たいのであれば、座談会的にお話しさせていただくのもありかと思っています。よければ。

また、自作「『ゆめ』の続きの話をしよう」の感想も随時受け付けています。毎日五回以上はエゴサしてますが、いまだにヒットが一件のみ。Twitterで出してくだされば必ず目を通しますし、お題箱も毎日確認していますので、そこに投稿いただければ返信させていただきます。こちらもよければ是非ご活用ください。

さて、話は逸れましたが、以上でネタバレレビュー第一回を終えます。
また書きたくなったら第二回書くかもしれません。

それでは。

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