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カチコチ凝り固まり子

最近の私、カチコチだったなあと社会人になって1ヶ月ちょっと経ったいま気づいた。

こうすべき、ああすべきの "べき" を強調されることに対してアレルギーがあるからこそ、周りの人や自分に対してそうありたくないと思っていた。
でも、自分自身の中に "こうした方がいい"、"これが当たり前やん" がありすぎることに気づいた。

それは人に "こうあってほしい" を要求するもので、でも要求していることって実は自分に対しても日々それらの言葉をかけている?!
ということは、周りを苦しめてることはもちろん、自分も苦しめてて、結局自分で自分の首を絞めてる状態やん!と改めて認識した。遅ればせながら。

なんとなく意識の領域では分かっているけど、きっとまだ無意識の領域ではできていなかった。
ゆっくりした時間ができたことにより、気持ちに余裕がある状態でいろんなことに触れたら、最近の私のカチコチ具合に出会えた。

新社会人だからこそなるべく100点、完璧に近づきたいと思っていたり、でもどこが100点で完璧かも分からんようなものに引っ張られてた。
努力することは必要やろうけど、力が入りすぎて余白をつくれないぐらいやと自分も周りも苦しませるし、なによりも行き着きたいところから遠ざかっている気がする。

いま流行りの "素敵な暮らし" って言われるものに対しても、いまの私の生活を全部をそこに当てはめるのは無理やと思う。ただ、0か100ではないんやから、できる範囲で日によってとか分野によって50やったり、20やったり、1やったり、80やったり、そんなんでよさそう。
全部手作りも無理やし、そしたら一切手作りをやらへんのかというとそういう訳でもない。

最近、いろんなことを知ると、知るたびに世の中に溢れていること、ものにもどかしくなる。
たとえば、安すぎる服。
できるだけ正しい情報を伝えて、犠牲がないものを買いたいけど、いまはその70%ぐらいしか達成されてるものが世の中にない気がしてる。
そこにも、なんで100%がないのよってちょっと皮肉を込めて怒るような気持ちになってしまってたけど、まずそんなに100%がほしいなら自分でつくろうっていう思考になりたいし、それがいまできなくても目標として1つ掲げるとかね。余談すぎるけど。

でも、世の中に100%がないなら0%のものを買うのではなくて70%のものを使って、そこに自分で工夫を取り入れたり、もっとこういうのがほしいを伝えるとかしたい。悲観的になりすぎて、世の中あかんわって文句言うのは違うよね。と思ったのは、ここ最近の私が悲観的になってしまってたから。
ここでも、めちゃくちゃカチコチやった。

きっといままでずっと肩に力が入りすぎて、凝り固まってることにも気づけてなかったから、これからは「おっとっと、いま力入りすぎてるわ、気をつけよ」ができるようになりたいな。

ついつい、100点じゃないとあかんって思いがちやけど、私はどこに行きたいのか、どう生きたいのかを考えると100点を目指すという部分にだけ焦点を絞るのは本末転倒やと思う。

私の周りの人のできることが60点、30点、1点と誰かに言われてたとしても関係ないなと思う。これだけ言うと、分かりにくいし抽象的な事柄になってしまうか。
たとえば、自分の子どもがテストで20点とか?とってきたとしても、ただ手抜きしたからの結果じゃないなら、その背景を見れる自分の状態でありたい。
「がんばったんやったらしょうがないな、次やな、どうしよっか」みたいに言いたい。怒ることほど私自身のことしか考えてないことないよね。
というか、私の子ども世代にはテストがあるのか?
さすがにテストはあるか?
でも点数とかで、そもそも誰かと比較して評価されない学びが楽しそう。

ちょっと脱線したけど、大切な人たちに "100点をとること" を求めたくないし、なにかができる状態をすきなのではない。
それができなくても、その人であることがすきなんやと思う。
周りの人がそれでいいと思ってるなら、私自身がそれでいいと私が認めてあげなと始まらんね。
もちろん私を含め、あること、doじゃなくてbeの状態でいい。

自分にも周りの人にも強要する必要なんてないなと思うなら、私自身が陥っている肩凝るぐらい力が入った状態は抜け出したいな。
ついつい出てくる "私にとっての当たり前" に周りのみんなを当てはめるのもやめたい。

肩に力が入っているって状態は客観的に見られたとしても、またきっとまたカチコチ凝り固まり子になりそう。まあそんでも、「またやってしまったわ〜」を繰り返してくんやろうなあ。
そんな自分がすでに想像できて愛おしいぐらいや〜
いろいろ書いたけど、ぼちぼちいけたらそんでいいね。

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