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かつて頑張ってご飯を作っていたことを振り返る2017年末

 ここのところの自分の食事記録を振り返り、「こんなのでいいんだろうか…」「いや、かつてはもっと頑張っていた気がする」「そーよ、今は忙しいのよ。もっとちゃんとやっていたはず」「確かなんかもっと色々作っていた」「盛り付けも工夫していた」と過去の自分への期待が高まり、実際に数年前の食事を振り返ってみました。

 色々迷走していました。がんばっているなぁって自分に思いました。妥協点を探して試行錯誤しているのが見て取れました。

 暮らしてはじめて、夫と食に関する感覚が合わないというか、許容範囲の広さが違うなと感じました。私のほうが広い。すると狭いほうに合わせることに…。食べ物の好き嫌いの多い人はノーって宣言してたんですけどだまされました。「食べられないわけじゃないから」とか「美味しければ食べる」とか、素直に嫌いを認めない感じがまた面倒くさい人です。

 好き嫌いの多い夫ですが、朝ご飯のパンはいつも嬉しそうでした。これは8枚切りのパンに、ブロッコリーと塩麹漬け半熟玉子のサラダ。あとは肉みそ的な炒め物(残り物)。

 これは8枚切りのパンに炒り卵と手作りレバーペーストとクリームチーズと生ハムとオイル漬け玉ネギを和えたものを一緒に。常備菜系の朝ごはん。下に敷いているインド綿のテーブルクロスは子どもに破かれたんでした。懐かしい。そういえば、食パンを8枚切りにしたのも太ることを気にする夫のためでした。

 「食べることはできるから嫌いじゃない」までは許すけれど、「美味しければ食べる」のセリフは人に料理してもらうに当たり失礼な態度だと感じます。
 そんなこともあり、「育児が大変そうだし、俺の分は料理しなくてもいいよ」という言葉を受け、悩みましたが現在私は夫のための料理は基本的にはしていません。生活時間が全く合わないことと、子どもの好みに合わせた料理に夫は耐えられないため、食事の手間がかかりすぎる、というのも理由にあります。
 この言葉の当時、ものすごいイヤイヤ期がはじまって数か月、ヘトヘトだったんでした。気を抜くと怪我する勢いで暴れるイヤイヤ期。頭を保護することが最優先でした。あれ今年だったんだぁと改めて気づくほどの過ぎた時間の遠さ。

 昔はこんな風にワンプレートっぽく盛り付けたりもしていたのですが、チビ子さんは味が混ざるのが好きではないようなので、小皿を買い足して分けて盛り付けています。筑前煮なんかも具材の種類ごとに入れたほうがよく食べたり、煮物より炊き合わせ的な盛り付けが良いみたい。

 現在。主食、主菜、副菜、汁物を木のプレートに収まる範囲で。たまにお茶わんやお椀や小皿がはみ出すこともありますが、基本はこれで十分。お盆を買おうかと思ったのですが、「ハッ!そうなるとおかずを沢山載せないと様にならなくて、料理が大変になったりしない?」という気持ちにもなり、当面これで。食べてくれないことも多いので、あまりエネルギーをかけるとがっくり度合いも大きいのです。

 全体を木のプレートに入れているのは、一人の分をはっきりさせて、ひとのお皿のものに手を出さないでほしいなぁと、行儀と虫歯予防の願いをこめて。

 改めて振り返ると、料理がこなれたなぁって感じます。一人暮らしで料理していたし、実家にいてもお弁当を作っていたので料理に慣れていると思っていましたが、日常として誰かのための御飯を作ることは、ものすごい修行になったようです。自分の抑えどころと押さえどころ。生活としての料理。

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