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「二重のまちを読む」を聞く

せんだいメディアテークの「星空と路—資料室」に展示されている、小森はるかと瀬尾夏美の「二重のまちを読む」について。瀬尾の2031年の陸前高田を舞台とした物語、『二重のまち』をテクストとした作品で、タイトルに「読む」とありますが、「黙読」ではなく、「朗読」という身体行為を前提とした音声作品です。椅子の上に置かれた4つのヘッドホーンから複数の語り手たちの声を聞くことが出来ますが、特徴的なのは複数の語り手たちによって、テクストが繰り返し朗読されることで、語るという行為自体が問題とされていることです。

テクストが反復されることで、ここで出会う声は「誰の声なのか」という問いと出会います。それは作中人物の声なのか。それとも発話する人物の声なのか。語り手が作中人物の経験を引き受けることによって、作中人物の声として語られている場合もあれば、自己の経験と照らし合わせ、自己の言葉として語られている場合もありますが、この作品の優れているところは、言葉にすることの出来ない経験を持つ者でも、他者の物語を借りれば発話することが出来ることを教えてくれていることです。沈黙と失声が語ることのできない経験、言葉にすることが出来ない経験によるものであるとしても、ここでは他者の物語を借りれば言葉を発することが可能であり、言葉を発することで出会う認識が、いずれ一つの言葉となって「声なき声」に言葉が与えられるかも知れないことが示されています。そうした可能性を感じせる点において、この作品はもっと評価されるべきだと思います。

ただ疑問なのはテクストが発話される時に、子供の「無垢」さが条件とされていることです。たとえば冒頭に登場する「ぼく」という子供の語り手は、父親から自分の知らない世界、謎が示されることで、必要以上に「無垢」な存在にされてしまっています。本来なら、子供にしか見えない、語れない世界があるはずですが(たとえば「遠い火|山の終戦」で描かれた子供たちの様に)、ここでは子供の知らない世界、謎が示されることで、子供ならではの視点が排除されています。

ここで子供たちの視点が排除されるのは、トラウマという外傷を負った大人たちが、子供たちを隠れ蓑にしているからといえます。つまり、この物語の本当の語り手は、無垢な子供たちではなく、子供たちに彼らの知らない光景を伝え聞かせている大人たちだということです。教養小説的に傷つくこと(経験すること)で成長する物語である必要性はありませんが、子供たちはいずれ自分たちの風景を見つけます。ですから、無垢な子供たちというのは、大人たちのエゴ、願望でしかありません。

子供の様な無垢な眼があれば、眼の前で起きていることの矛盾が解消されるのではないのかという思いは、記憶し続けたいという思いと同じぐらい、忘却したいという思いがあるということです。もちろん忘却が悪いという訳ではありなせん。それが必要とされるほど、言葉とそれが指し示すものとの関係が不安定だということです。

たとえば「下のまち」に通じる「扉」というのは、一見するとおとぎ話的な形式ですが、その行先にあるのはファンタジーでなく、センチメンタルな世界です。おとぎ話的な形式で語られる物語の着地点が、センチメンタルな世界だというのは、この物語が「無垢」な子供たちでなく、「傷」を負った大人のための物語であるからといえますが、物語の枠組みとして「無垢」な子供の視点が用意されているのに、あっさりと「扉」の向こう側にある世界の謎が解明されてしまうので、読み手の好奇心は持続しません。また「お父さんは少し、泣いていた」と、冒頭から物語の行先がセンチメンタルだということが明かされてしまうので、感情移入がし難くなっています。

この作品の目的があくまでも語れない経験を持つ人たちに発話させること、声を持たせることであって、その為には「無垢」であること、或いは「感傷的」であることが必要とされているというなら。そのことを批判するよりも、発話されることで起こるその先のことに期待する方がよいと思います。しかし、これは語り手の側に立った解釈であって、聞き手の側の解釈と違います。

朗読という行為がテクストに対する疑いがあったら成立しない行為であることを考えれば、聞き手には、常に語り手とは違う役割が求められているはずです。何故なら、イノセントを隠れ蓑にしてしまうと、語れない言葉と出会う機会が失われてしまうからです。たとえそれが取り返しのきかない言葉であっても、それと出会うことで救われるのが物語の力であるはずです。ですから、聞き手はどんなにそれが心地よい語りであっても、そこに身を任せてはいけないのです。もちろん、これは酷な要求です。しかし、そこで語られる言葉と眼に見える世界とにはズレがあることを認識し、新しい物語が生まれることを待つ必要性があると思います。