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「とある窓」展

東北リサーチとアートセンターで開催中の「とある窓」展について。会場には岩手、宮城、福島の沿岸部で暮らす人たちの言葉と風景が「窓」をキーワードとした形で切り取られ、記録されたものが展示されています。まず気づくのは写真とテクストの対象(窓)に対するアプローチの違いです。テクストでは、語り手の言葉の中に聞き手の言葉や解釈が入り込まないように直接話法というスタイルが選択されているので、対象にアプローチしているのは語り手です。おそらく直接話法というスタイルが選択されている理由は、語り手の言葉を限りなく「純粋な語り」とするためだと思いますが、ここで重要なのはテクスト内で語られる言葉、声は語り手のものであるということです。そこに聞き手の視点や言葉はありません。あくまでも語り手の視点から見られた窓の外の風景が、語り手の言葉によって語られています。
これに対して写真では、語り手の視点ではなく、作家の視点で捉えられた風景が提示されています。テクストでは語り手と語られる対象(窓)を見ている視点は同一のものです。しかし、写真ではそれが分離しています。同じ対象を見ていても、それが語り手の視点でないということは、特に窓枠から見える風景の一部を大きくクローズアップしている写真から分かると思います。窓の枠組みの中から、何を選択し、何を大写しにするのかというのは、語り手の指示によるものでなく、作り手の判断によるものです。またスライドを用いた上映室の方で見られる写真作品の中に、語り手と聞き手と思われる人物が写りこんでいたり、ややルール違反的にも見えるのですが窓枠が全く写っていない風景写真があったりすることからも、語り手と異なる視点の存在を確認することが出来ると思います。
もっとも写真が語り手ではなく、作家の視点を前提にしているということは、テクストとは違い作家の名前がクレジットされていることからも分かることなので不思議はないのですが、写真における視点の特異性と、テクストとのアプローチの違いというのは指摘しておきたいと思います。

写真とテクストの相違点が対象に対するアプローチに仕方にあるとしたら、共通点は共に室内という個人空間には視点が向かわない点にあります。視点は窓の外部にある風景には向かいますが、窓のある部屋の住人の生活や人柄を特定するような室内の細部には向かいません。こうした傾向は写真よりもテクストに強く見られるのですが、これは「その窓から何が見えていましたか?」という聞き手の質問が、語り手の視線を窓の外部に誘導しているからともいえます。そうした意味というと、ここにあるのは直接話法でなく、間接話法なのかも知れませんが、テクストからは語り手も聞き手も窓がある室内空間が、その部屋の主人の内面空間となることを避けている印象を強く受けます。
こうした印象は駅や学校といった公共空間で語られる語りと、語り手の自宅といった個人空間で語られる語りが並置して置かれていることも影響していると思いますが、注意しなければならないのは、語り手と聞き手の間に固有の記憶、あるいは空間を尊重し、そこに入り込まない関係性があることです。この関係性の特徴は、窓の外部に向けられた視線は語り手に、語り手しか知り得ない個人的な記憶ではく、震災や復興工事という誰もが知っている事柄を語らせるので、誰もが共有出来る集合的記憶が語られることになっていることです。もし、語り手が自己の語りに終始してしまったら、聞き手や観者に共有出来るものは限られてしまうでしょう。そうした意味でいうと、この関係性には聞き手や観者を、共通の記憶に巻き込む要素があるといえます。
ただ気を付けなければならないのは、ここで語られる「語り」というのは、多分に偶然性によるものだということです。偶然性というのは、語り手と聞き手の親密性が語りの内容や量を決定している訳ではないということです。初対面の人であっても多くを語ってくれる人もいれば、親密性な信頼性があっても語らない人は多くを語りません。「何を語るのか/語らないのか」という決定権は聞き手の側にはないのです。「語らない」という決定権は語り手の側にあります。この時に問題となるのは、語り手によって語られる「語り」とは「物語」ではないということです。「物語でない」ということはどういう事かというと、たとえば「海は見えないが、波の音は聞こえる」あるいは「臭いはする」といった感覚レベルの事は話されても、それが何を意味するかということは、語り手には意識されていないということです。意識されていない平凡でたわいもない語りであるから、私たちはそれを容易に受け入れることができるのですが、同時にそれは語り手にも分からない、言葉にすることができない感情や記憶があることを意味します。
記録という観点から見たならば、語られたこと以上の事を記録する必要性はないのかも知れませんが、表現という観点から見たならば、そこに欠如しているものがあること。言葉に出来ない言葉や声、秘密があることを気付かせる必要性があるのではないでしょうか。
表現にしか表現出来ないものがあるとしたら、それをどう表現するのかという問題が作り手にはあると思います。言葉として関与していくのか。あるいは写真や映像といったメディアで表現するのか。そうした意味で言うと、今回の作家の視点を前提とした写真がどう機能していたのかということは検証される必要性があると思いますが、この辺がリサーチを前提とした作品の今後の課題であると思います。