《二重のまち/交換地のうたを編む》における身体性について

2月にせんだいメディアテークで開催されていた小森はるか+瀬尾夏美「ほぼ8年感謝祭 あわいの終わり、まちの始まり」展で、《二重のまち/交換地のうたを編む》という映像作品を見ました。
「旅人」という設定で四人の若者たちが、見知らぬ街(陸前高田)を訪れている姿を記録した作品でした。特徴的だったのは外部から街にやってきた若者たちと、土地の人たちの交流を目的に開催されたワークショップを土台にした記録作品であるのに、作品を構成するのは基本的に若者たちの証言だけであったことです。つまり、ここでは両者の視点からプロジェクトの全体像に迫るのではなく、一方の当事者たちの証言のみで全体を再現・再構成することが試みられていたわけですが、注目したいのは、もう一方の当事者たちの声は観客には見えないもの、不可知なものとされていたということです。

この作品には観客には見えない不可知な場があります。しかしその場で何が起きていたのかを想像することは可能です。例えば両者が出会うことで生じる空間的近接性から、両者の間に<語る⇆聞く>という関係性が発生したことを想像することはそれほど難しくありません。そして「被災地」という場所を考慮すれば、おそらくごく自然に街の人たちが<語り手>となり、旅人である若者たちが<聞き手>となったのであろうことも容易に想像出来ると思います。

そこにあっただろうと思われる<語る⇆聞く>という関係性は、空間と時間の同時性を共有し合う両者の身体を前提としたものです。しかし観客に提示されるのは「聞き手」であった若者たちが、二次的な語り手となってカメラの前で語りだす姿です。そこに空間的、時間的同時性を前提とした両者の共有関係を見ることは出来ません。そこにあるのは二次的な語り手となった若者たちの身体だけです。しかしこの身体は、もう一方の当事者たちの存在を強く意識させる身体でもあります。

若者たちはカメラの前で賢明に、自分たちが「聞き手」として聞いた「語り手」たちの声を再現、伝えようとします。しかし、その試みはあまり上手くいきません。何故なら、<語る⇆聞く>という関係性とは、言語のみによって成立する関係性でないからです。それは発話行為に伴う多くの身体的行為によって支えられています。
たとえば「震災」という言葉にすることが困難な経験を語る場においては、私たちは、言葉よりも、語り手の表情の変化や身振りといった身体的行為から多くのことを読み取っているはずです。言語的には「沈黙」しか意味しない身振りであっても、そこには言葉よりも多くの情報があり伝達されています。そしてそれを可能とするのは「語り手」と「聞き手」の身体的近接性なのです。しかし作品内でそれを担うのは二次的な語り手の身体だけです。

二次的な語り手として登場する若者たちの身振りは、言葉にすることが困難な経験を伝えようとする一次的な語り手たちの身振りを模倣しているかのようにも見えます。しかし彼らの身振りが意味するのは、自分たちには「言葉にすることが出来ない経験」などないということだけです。それは私たちが無意識的に抱くステレオタイプ的な被災者のイメージを壊す身振りであると同時に、共同体の集合的記憶を堆積することなく造成された新しい大地のメタファーのようにも見えます。

若者たちの身体が大地のメタファーであるとすれば、それは当然、「記憶する」ことや「伝える」ことの困難さを意味するものとなるのですが、この作品の難しいところは、そうした困難さを表現することを目指したものでなく。困難を「語り手」との限りない同一化という方法で克服しようとする作品なのではないかと思うえてしまうことです。端的にいえばそれはテキストの朗読という方法で作品が進行していく点に感じられることですが、テキストの朗読(語り手との同化)という行為が、「同化」を前提とした「馴化」という方法となり、見知らぬ他者との出会いから生まれる摩擦や衝突といったものが作品内から極力排除されてしまい。結果、他者との出会いから生まれる摩擦や齟齬が、他者の発見となるということが、観客には見えないものとなっていないかということが少し気になる作品でした。

参考文献
小森陽一『構造としての語り・増補版』青弓社、2017年