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ダミアン・ハースト「Treasures from the Wreck of the Unbelievable」展

2017年にヴェネツィアで開催されていたダミアン・ハーストの展覧会「Treasures from the Wreck of the Unbelievable」(2017年4月9日~12月3日)について。

会場に展示されていた作品の大半は、「身体」をモチーフとしていましたが、西欧の美術史が「身体」の表象の歴史であることを考えれば、「身体」がメインとなることに不思議はありません。ただ特徴的だったのは、そこにあったのが多分にヘレニズム的な身体であったということです。

何故、ヘレニズム的かというと。それはこの展覧会のコンセプトと関係してきます。ここでは「2000年前に沈没した難破船から救出されたお宝」という前提で作品が制作・展示されていましたが、この「2000年前」という設定が意味するのは、ここにあるのはヘブライズム(キリスト教)的な身体も、20世紀の偶像破壊的な身体も経験、通過することがなかった身体という意味だからです。歴史を通過していないので、そこには歴史としての奥行がありません。あるのはオリエンタルな要素だけです。また歴史がないということは、乗り越えるべき対象を持たないということでもあるので、造形的な新しさを期待することも、当然、出来ないということです。

実際、会場には巨人主義と形容するしかないほどの巨大な立像群(多くはブロンズ像)が数多く展示されていましたが、そこに造形的な新しさを確認することは出来ませんでした。代わりにあったのは、映画(映像)を前提とした視点です。何故、映画なのかというと、ここでメインとなる作品は巨大な立像群ではなく、海底から難破船のお宝を救うという偽のプロジェクトを記録した映像作品の方だからです。立像の巨大さに注目が集まる展覧会でしたが、ハーストの巨大なブロンズ像を前にして驚かされるのは、その大きさではなく、それらが海中にダイブ、下降して出会う視点を想定して制作されたものだということです。会場でどんなに作品の周りを歩いて回ってみても、それが見るべき地点を見つけることが出来ないのは、それらが地上から天上を仰ぎ見る視線を想定して制作された作品ではないからです。そこで必要とされるのは人間の眼ではなく、海中で浮遊する視点、カメラの眼であったといえます。

ハーストの人間の眼ではなく、カメラの眼を想定して作られる神話を再現した巨大なジオラマは、最早、彫刻と呼び難い塊です。素材の高価さや、表面の滑らかさ、或は精巧な細部性という部分に注目と批判が集りまるハーストの作品ですが、それらは撮影の為の小道具と言って良いものであって、さして重要な要素ではないと思います。もちろん、そこに商業的戦略を読み取り批判することもできますが、より深刻なのは彫刻がカメラの眼を前提に制作されているということです。カメラはブロンズ像の巨大さも、細部性も、単なるシルエットとして映し出してみせます。

例えば「Hydra and kali Beneath the Waves」[図1]という作品は、プラトンの洞窟のアレゴリーを思い起こさせる作品ですが、作品の前に立つと、私たちの身体までも映画の世界に内包されてしまっているかのような錯覚を覚えます。美術作品における映画の影響は20世紀初頭からあrですが、作品だけでなく、私たちの身体さえも、映画的世界に内包されてしまうという状況は、今日的な問題といえます。

図1「Hydra and kali Beneath the Waves」

映画という観点から読み取れるのは、そこに映画産業的な構造があるということです。「映画にとって小さな大衆は存在しない、存在しえない」といったのはポール・ヴァレリーですが(註1)、ハーストほどヴァレリーの「最大の収益を即座に狙って、観衆を創出しなければならない」という言葉を上手く実践している作家はいないでしょう。ハーストは人々を瞬時に魅了するもの、欲しがるものが何であるのかを了解しています。たとえば「Demon with Bowl」[図2]という18メートルに及ぶ作品は、「カーディフの巨人」のように人々を魅了することに成功しています(註2)。

図2 「Demon with Bowl」

しかし問題なのは、映画という若い芸術に融合するにあたり、ハーストが美術の歴史を放棄していることです。何故、ハーストが「2000年前の難破船」というコンセプトで歴史をすっ飛ばすのかと言うと、歴史をすっ飛ばすと断絶がなくなるかです。少し紛らわしいのですが、断絶というのは歴史の中にあるものであって、歴史がないところにはありません。たとえば偶像破壊のような断絶というのは、歴史の中にある出来事、経験です。美術史や歴史の中には、こうした断絶、裂け目が幾つもあります。歴史の連続性というのは断絶の連続性だと言い換えることが出来ます。

ハーストの展覧会で現代のミッキーマウスが登場するのは歴史の奥行がないからです。断絶がないから過去と現在が異質なものとしてではなく、同質なものとして並列するのです。つまり相克すべき対象を持たないということです。ですから、同じ古代指向でも中世という断絶を前提としているルネサンスと、断絶を前提としないハーストでは全く違うものとなるのです。



註1. ポール・ヴァレリー『ヴァレリー集成Ⅴ <芸術>の肖像』(今井勉・中村俊直編訳、筑摩書房、2012年、P408)

註2. カーディフの巨人は、ニューヨーク州カーディフで1869年に捏造された「巨人の化石」。金銭的な動機による捏造であったが、人々の信じたいという要求に上手く応え、合理的な説明を撥ねつけた。ケネス・L・フィーダー『幻想の古代』(福岡洋一訳、楽工社、2009年)参照。