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「ヤッホー!」中野浩二彫刻展から3Dで作品を見ることについて考える

ギャラリーターンアラウンドで「ヤッホー!」中野浩二彫刻展(2018/4/3~15)が開催されていた。会場にはゲオルク・バゼリッツの木彫を彷彿させる作品群が展示されていたが、新表現主義を代表するバゼリッツの荒削りの作品と比較すると、石膏を使用する中野の作品から受ける印象は激しさではなく多分に静的なものであった。静的ではあるが、作品には回転や歩行、或いは壁に寄りかかるといった動きが持たされている。それらの作品が会場に配置されることで、会場全体に静かな方向性、動きが与えられていたといえる。ここで注意したいのは一見すると粗雑に見える細部が動きを表現する要素となっていることである。細部の処理を放棄することで動きを表現する方法としては、ベルニーニの『アポロンとダフネ』(1624-25年)で採用されている細部の処理方法などを思い出すが(註1)、中野の作品でも制作を放棄しているように見える細部が、たとえば石膏のほつれなどが作品に動きを感じさせる要素となっている。バゼリッツの木彫などと比較すると中野の石膏という方法は限りなく制作行為を放棄しているものに見えるが、入念に見れば作りこまれたものであることが分かる。プリミティブな形態の作品であるのに、「白さ」という非常に西洋的な価値基準を持つ素材(石膏)が使われている理由がこの辺にある気のかも知れない。個人的には作家のテーマである「人間」よりも、動物(ネコ、もしくはイヌ?)の作品に可能性を感じる展覧会であった。

註1 ベルニーニというと超絶技巧で有名だが『アポロンとダフネ』では、髪の毛などの細部に意図的な彫り残しがある。金山弘昌「≪アポロンとダフネ≫-ベルニーニとバロック」(諸川春樹編『彫刻の解剖学』ありな書房、2010年)を参照。

以下、この展覧会で制作した3Dモデルについて
会場で即興的に撮影した写真を使って3Dモデルを制作してみた。思いつきの行動であったので使用したカメラは携帯で、壁際などの際どい方向の写真は作品と接触してはいけないので撮っていない。当然、出来としては完全に失敗作の部類に入るものなのだが美術作品を3Dにするのははじめてであったので過程を少し書き残しておきたいと思う。使用したソフトはロシア製のAgisoft PhotoScanで、カメラはiPhon5。もっと高画質なカメラを使って撮影すれば、ほぼ実物と遜色のない質感が再現可能だが、今回は簡易的な撮影なのでそこまでのものは求めない。あくまでも過程を重視することにするが、3D生成の過程で一番驚くのはドットの集積でしかない2D(写真)の情報から、コンピューターが撮影位置の推測(アライメント)からドットに深度(距離)を与え点群(ポイントクラウド)を作成することである。
もう少し簡単にいうとドットの集積という意味では2Dも3Dも同じであるが、同一平面上に点が並んでいる2Dでは、奥行きというのはあくまでも目の錯覚でしかない。これは写真よりも絵画の方が分かりやすいと思うのでスーラ―の「パレード」で説明すると[図1]。私たちの眼は前景に描かれた人物と、中景の人物、後景の人物をそれぞれ見分けることが出来るが、あくまでもそれは眼の錯覚であって、手前に見える人物も奥にいるように見える人物も同一平面上に並んでいる点である。しかし、3Dでは前景にいる人物を表す点と、中景にいる人物を表す点との間にある実際の距離(深度)が計算され、その情報が点の一つ一つに与えられるので、それらの点が同一平面上に並ぶことはない。その代りに物質のみに情報が与えられた空間が生まれることになる。よく絵画や写真で空気が表現されているかどうかが問題とされることがあるが、3Dでは物質の情報を持たない空気は原則的には表現されない。

[図1] ジョルジュ・スーラ―「サーカス」1887-1888年

作業手順的にいうとアライメント作業で点群を生成したあとに[図2]、ジオメトリを構築し、最終的にはテクスチャーを貼りつけて完了となるが[図3]、ここではアライメント以降の作業の説明は省略して完成した3Dモデルを見てみたい。完成した3D モデルを見て分かるのは、いかに絵画的なものの見方が慣習化していることである。作品を前にすると無意識的にその作品が見られるのに最も適した場所を探してしまうが、その視点だけで撮影された情報だけでは3Dモデルを完成させることは決して出来ない。

[図2] ポイントクラウドの生成

[図3] テクスチャーの生成


正面主義から決別しなければ、飛行機のような浮遊する視点は手に入らないのだが、ここで注意しなければならないのは、浮遊する視点は必要以上に細部を確認することを可能とするものであるし、本来なら床に這いつかなければ得られない視点や、空中から覗きこまなければ得られない視点を与えてくれるものであるが[図4]、そこで再現され眼にすることになるものは、あくまでもそれらしく見えるものであって、完全なコピーと呼べるものではないということである。感覚的には作品のコピーというより作家の頭の中を覗いているという感じであるが、正面主義から解放されるには、もう少し技術が通俗化されるのを待つ必要性があるのかも知れない。

[図4] 会場(部分)を真上から見下ろす視点