「語り野をゆけば」における場所の感覚

東北リサーチとアートセンターで開催されている「語り野をゆけば」展について(2018年1月18日~2月18日)https://artnode.smt.jp/event/20180104_2544。

会場には三人の語り手たちの言葉(映像、テキスト)と、それに付随する関連資料(地図、写真)が展示されている。展覧会の特徴は「語り継ぐ」というコミュニティ空間の形成にあると思われるが、ここでは「語り手/聞き手」という関係(トポロジー)ではなく、語り手たちが語る「場所」(トポス)に注目してみたい。
「場所」を問題とする理由は二つある。まず一つ目の理由は、ここに登場する三人の語り手たちに共通するのは、それぞれが自身と深い関係にある「場所」の記憶を語ることで、喪失による空白を埋めようとしていることである。それぞれが抱える喪失の内容は、「戦争」「震災」「抑圧された性」と三者三様だが、たとえば閖上で被災した男性が、「避難所」「自宅跡」「日和山」といった場所を語ることで、失われた場所に、新たな場所性を与えよとしているように、語り手たちは出来事そのものを語るのではなく、出来事の背景にある土地の記憶を語ることで、そこで起きた出来事を語ろうとしている。
語り手たちの場所に対する姿勢は、ウォーレンス・ステグナーの「そこで起こった出来事が、歴史、民謡、ほら話、伝統、あるいは記念碑として記憶されるまでは、場所は場所になりえない」という言葉を思い起こさせるものであるが、語り手たちが自身と関係が深い場所、土地の歴史を語ることで、そこに深い同一性を求めるのは、それが過去と現在との連続性を保証する真実、意味となるからではないのか。
たとえば民話の語り部である女性は土地の記憶と出会うことで、「民話には根っこがある」という確証を得て、形あるものが失われても、確固とした居場所があることを知ることになる。呼び起こされた土地の記憶は、語り手たちに帰属するべき居場所を教えるのである。もちろん、ここで女性に土地との同一性という出会いを届けているのは民話であり、それを女性に語り伝えた人々の存在である。そうした意味において「語り手/聞き手」という関係性は重要である。しかしここでは「語り手/聞き手」という連続性ではなく、土地との連続性を重視したい。何故なら「語り手/聞き手」というコミュニティが強調され過ぎると、場所の不平等性が見え難くなるからである。
場所の不平等性とは、つまり環境の不平等性のことであるが、「場所」を問題とする二つ目の理由は、土地の記憶を呼び起こす語り手たちの環境の違いを注視したいからである。たとえばシベリアの抑留地から帰還した男性と、民話の語り部である女性は、共に幼少期を戦前の父権制的社会の中で過ごしているが、男性には生まれ育った共同体の価値観から離脱するという選択肢があり、「満州」という外地が戦争や貧困から抜け出せる理想の地となる。もちろん男性の理想は挫折する運命にあるが、それでも挫折による自己の発見というロマン主義的選択はあったといえる。しかし女性にはそのような選択肢は用意されていない。幼少の頃から慣れ親しんだ民話の中に抑圧された性の文化構造を読み取りながらも、そこから逃れる術を持つことなく、性という環境の不平等を受け入れなければならない。
しかし、こうした環境の不平等さは気づかれにくい。たとえばシベリアの抑留地で「ソ連の女性でさえ親切にしてくれた」という体験から、「人間はみな同じ」と男性は語るが、男性に女性が語る「戦争に関する女の苦労」という性差、或いは人種の差という環境の不平等さが見えていたのだろうか。
男性が「人間はみな同じ」という平等の真理に気が付く機会はそれ以前にもあったはずである。しかし男性は外地で中国人や朝鮮人に対する差別を目の当たりにしても傍観していただけともいえる。傍観者であった男性が「人間はみな同じ」という真理に気が付くのは、収容所という特殊な環境で、それまで見る側に居た者が、見られる立場に身を置いた時である。しかもこの時、「ソ連の女性」が「人間はみな同じ」という平等意識で男性と接していた保証はない。過っての男性の様に傍観者として男性を見ていたのかも知れない。確かなのは男性が「人間はみな同じ」でなければ救われない環境にいたということだけだが、ここでの目的は男性を糾弾することではない。そうではなく「人間はみな同じ」という真理が、遅延して男性に届いているということである。民話の女性が先達に聞いていたはずの民話の真意、意味を理解するのに、震災という経験を必要としたように、ここには環境の不平等による遅延がある。しかし、それが意識されるには、もっと意識的に語り手たちの場所語りに耳を傾ける必要があるだろう。
最後に、家屋の二階ごと津波に流された経験を、「三人と一匹」がノアの方舟のように流されたが、「自分はノアのように正直者ではないので、神様は助けてくれない」と。大胆に寓話化してみせる女性の姿を写した映像は、抑圧された環境の中でも、土地の歴史と家族の歴史を接合し、自分の家族には帰属するべき居場所がることを伝えるものとして印象的であった。