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『息の跡』再考

小森はるかの『息の跡』にはふたつのフレームがある。ひとつは「たね屋」というフレームで、基本的に作品はこの「たね屋」というフレーム内で起きた出来事を記録した映像によって構成されている。もうひとつは「たね屋」というフレームの内部にある「窓」というフレーム(=スクリーン)で、そこにはひとつの街の痕跡(過去)が消されていく風景が映し出されている。
ここで驚くのは、おそらく普通であれば、この窓の外にある現実というのは、それがどんなに理不尽で矛盾的なものであろうと、「仕方のないこと」あるいは「運命」だと理解されて、「たね屋」という自己のメタファーとなる内部空間で営まれる「日常卑近の世界」を聖化、美化していく生き方が選択されていくことになるだろうと思われるのに、ここでは世界や出来事の矛盾を「仕方ないこと」「運命」と受け入れて諦めるのではなく、むしろこの矛盾を問うという選択がなされていると思われることである。
なぜここで「たね屋」を営む男性が、土地の宿す記憶を掘り起こすのか。そしてそれを書き続け、記録し続けるのかというと。それはそれが過ぎ去った時間の流れなかから、意味を探し出して、意味を与えることが可能な行為であるからではないのか。
もちろん簡単に答え(意味)など見つからないだろうし、それがあるかどうかも分からない問いだといえる。しかし、この作業をやめてしまったら、理解不能な出来事に意味を与えるどころか、全てが無意味に帰してしまうことになるだろう。だからこそ男性にできるのは、意味を探り当てるために必要な記録を未来の誰かに向けて書き残すこととなるのだろう。
この時に注意したいのは、「たね屋」というフレームが男性の庇護膜としても機能していることである。ここでは「たね屋」というフレームが、男に世界と対峙する台座を与えている。そうした意味において、この作品はフレームの物語ともいえる。フレームの物語であるので当然、作品はたね屋というフレームの解体をもって終わることになる。しかし、この作品は決して「解体」という結果だけが分かれば良い、見せればよいという映画でない。
なぜなら、この作品は見返す度に、男性の発する問いと出会うことができるからである。男性の「分かるか」という問いかけは、現実を運命として受け入れ諦めて日常卑近な世界で生きていないかという問いかけとして聞こえてくる。もちろん現実の時間の中においては、男性や作家も例外なく、全ての人の考えと意識は移り変わっていくものである。しかし作品内においては、常に同じ問いが反復され、その問いと出会うこととなる。それがこの作品を何度も再見することが可能な要因であると同時に、映画の可能性である気がする。