「根をほぐす」を見る

小森はるかの映像作品「根をほぐす」(2018年、18分)は、長編映画「息の跡」(2016年、93分)の別ヴァージョンとして制作され、せんだいメディアテークの「星空と路—上映室」で発表された作品です。作品の枠組みとなる舞台は「息の跡」と同じで、陸前高田でたね屋を営む男性の日常を記録したものですが、特徴的なのは、その後の世界を新たに撮影記録したものではなく、既に撮影されている映像を再編集することで、同じ出来事に違った視点が与えられている作品だということです。具体的にいうと、ここではたね屋の解体というエピソードが独立した形で取り上げられています。これは「息の跡」ではラストに使われていた箇所です。「息の跡」がたね屋というフレーム内で起きた出来事を記録した作品であることを考えれば、たね屋の解体という出来事は作品の終わり方として申し分の無い終わり方であったといえるでしょう。

たね屋というフレームの内部に固定された視点の特徴は、そこから見える風景が「所有」性を意味しない、「非所有」的なものであったことです。津波で被災した地に自力で再建されたプレハブ小屋は、本来なら男性にその土地とそこから見渡せる風景の所有性を保証するものです。しかし嵩上げ工事によって、たね屋の窓枠の外に広がる風景も、店舗が建つ土地も、そこにあった全ての痕跡が土に埋もれて消えていきます。消えていく風景は誰にも所有できません。これは「根をほぐす」においても同様で、たとえば男性が屋根の上から「前は、ここから海が見えたんだぞ」という時に、本当に見えなくなってしまったのは海ではなく過去の痕跡といえます。

たね屋の痕跡も、井戸の痕跡も、いずれ見えない過去となります。しかし、ここでカメラが記録しているのは消えていく痕跡だけではありません。カメラは男性が自らの手でたね屋を解体していく過程で、常に過去を参照しながら現在を確認していることを捉えています。たとえば雨樋を手にしながら、震災前は自分でやれることもやらなかったけれど、今は考え方が変わったことや、あるいは廃材となった角材を手にしながら、「これ松原の松みたいだね」と、津波で流された7万本の松のことが語られます。何を手にしても過去がフラッシュバックして、男に過去を語らせます。しかもそこには「痛み」があります。男性がおどけながら角材を津波で流された松に見立て、それを自らに突き刺す仕草をしながら、「痛いよ」という時の、その過去の「痛み」が一体どれ位のものであるかは分かりません。確かなのは「痛み」を感じながらも、男が「これはまだ使える」「これでまた何か作ろう」と、自身の未来の行為に対する意思表示を口にしていることです。

「使える/使えない」という選択行為は、自身の意思とは無関係に全てを失った津波の時と違い、男性の意思によるものです。解体作業中に男性が見せる選択行為の中で印象的なのは、手書きの看板を移転先である高台の場所に設置しながら、しきりにそれが「見える」のか「見えない」のかを気にしていることです。男性の行動は過去の痕跡は消えて見えなくなるが、新しい場所で刻まれる未来は見えるかも知れないと、慎重に探っている姿のようにも見えます。もちろん、その未来は不確定で「誰も分からない」ものです。しかし、それを想像することは出来るはずです。たとえば「前より狭くなる」という新しい店舗の内部から、どの様な風景が見えるのかはここでは示されませんが、「見せない」ことで、それを想像させているともいえます。

この作品は「息の跡」と同じ時間内の出来事を記録した作品であるので、最終的には「息の跡」と同じく井戸の解体という出来事をもって終わります。しかし、その出来事の前に高台の移転先でのシーンを挿入することで、作品内の時間の幅が大きく広がっています。もちろん、ここには「息の跡」では描かれていないその後のシーンとして、解体後の井戸の水を汲み上げて、なかば儀式的に手を清め、店先に咲く「松葉菊」の根をほぐすシーンが追加されています。解体された井戸から汲み上げられた水は、劇的に変容していく風景を沈黙のままで終わらせないために、男性が掘り起こした言葉のようでありましたし、根をほぐされた花の行方は、その後を暗示させるものであったと思います。時間的にはこちらのシーンの方が、高台での場面よりも、その後の世界の出来事を映したものです。しかし、そうした場面よりも、カメラが今居る場と次の場を往復することの方が、その後の時間を感じさせる効果を与えています。

おそらく最後の埋め立て寸前の井戸の跡のカットだけは、新たに撮影され直したものなのでしょうが、ここでもカメラが往復することで、本来ならそこはもう帰らぬ場所であるという寂しさを軽減させるものとなっていますが、これはおそらく作り手の優しさなのだろうと思います。