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3万文字はどんな書籍よりも自分の行動指針となるものだった

3万文字以上人生を振り返ることで
自分の行動のパターン、自分の価値観が見えてくると聞き、振り返ってみました。

振り返ってわかった事
・カオスであればあるほど楽しい
・楽しい楽しくないの判断は人
・「嫌」のエネルギーがすごい
・達成のための努力が凄い
・チームで1位よく取ってた
・決断は直感

3万文字以上に書くとなると今まで思い出さなかった事も思い出し「これから先自分がどう動けばいいのか」「何を自分が大事にしているのか」が明確になりました。

幼少期

あまり笑わない子から活発な子へ

安陪幸江、1986年10月7日に次女として生まれました。

2歳までの私は
・あまり泣かない
・あまり話さない
・人見知り(知らない人の前では笑わない)
・よく風邪を引いていた

一人で遊ぶことが上手で、1歳半の時には絵本を見ながら自分で物語を作っていたそうです。

3歳を過ぎると、活発でよく喋り、運動が大好きな子になりました。

5歳の時妹が生まれたのですが、ビデオを撮っていると「見せて!見せて!」、母が妹をお世話しようとすると「やらせて!やらせて!」と希望が叶うまで黙らない。ビデオに映る私は本当にウザかったです。

姉が小学生になると、姉が帰ってくる間静かになるように、ファミコンのアンパンマンのすごろくと、こどもちゃれんじを与えられました。
チャレンジは覚えていないですが、アンパンマンのすごろくがめちゃくちゃ好きだったのを覚えています

ゴタゴタの中で過ごす

①福岡県生まれ→②兵庫県西宮→③姉と私だけ父方の福岡の実家→④母と一緒に母の実家→⑤兵庫県加古川市
これが6歳までに自分が過ごした場所です。

母は福岡から出たことがない人でしたが、父が転勤族だったため、結婚してすぐに仙台に住むことになりました。友達もいないし、父の帰りも遅いし、そもそも話も聞いてくれない。話を聞いてる感じ、今でいうモラハラっぽいです。何度も家出をしており、福岡の父の実家に子供たちだけで行った時は、母の家出が原因だったようです。

父は朝は早く、夜は遅く、土日も仕事してるか本読んでるか。色々なところに連れて行ってくれたとは思うのですが、思い出の中に父がおりません。
友達が「お父さんが17時に帰ってくる」という話を聞いて、この子のお父さんは仕事をしてないんだ。と本気で思っていたことを覚えています。

小学生か中学生か忘れましたが、一度母に「なんで離婚しないの?」と聞いた事があります。

母は父の悪口を子供に言うとか、そういう事は多分しませんでしたが、母はお父さんの事が好きじゃなくて大変そうなのに、なんで一緒にいるんだろう?とめちゃくちゃ疑問に思ったことを覚えています。

「こんなに我慢したんだから離婚しないよ」と母が答えた気がするのですが、「やっぱり我慢してるんだ。離婚したらお母さんについていこう。でもお父さん大丈夫かな?」と離婚後の計画について考えたこともありました。

時代を感じる 中央:私、右:姉

3度転校した小学生

1年半兵庫県→3年間オーストラリア→1年半神戸・六甲アイランドで小学生時代を過ごしました。

この時期の信頼できる人は姉

ずっと姉の金魚の糞でした。学校も姉と一緒に行けるから安心。習い事も姉と一緒。公文・習字・ピアノをしていました。自分からやりたいと思っていた訳ではなく、姉がやっていたから自分もやる、一緒に行きたい。というスタンスです。

なので、公文は宿題が本当に本当に嫌だったし、習字は姉と一緒のガウンを着て習字教室まで行くまでが楽しかったし、ピアノも練習が嫌いでよくサボっていました。

お別れが悲しいとは思わない

好きな子が同じマンションで、よく遊んでました。
バレンタインにチョコを作って渡しに行って、恥ずかしくて、ピンポンして渡してすぐ逃げたことはよく覚えています。

2年生夏休み前にオーストラリアへの転勤が決まり、私の送別会でその好きな子からペンギンの人形を貰いました。めちゃくちゃ嬉しくてペンギンの人形も捨てられず今でも持ってるのにも関わらず、その好きな子の名前も顔も思い出せない私。引越しの日も泣くことはなかったようです。

この後も引っ越しで何度も友人とお別れをしますが、友人と会えなくなる事が寂しいとは感じませんでした。引っ越しをするからお別れをするのは必然で、次にいく場所が不安とかそういうものもなく、業務を全うする感覚です。

大きくなっても卒業式では、「さみしいねー」とか一応言うものの、心の中ではそんな事思ってもなく、その場に合わせて寂しいふりをした方がいいという判断です。

母がいなくなったこともあるし、父も常にいないし、引っ越しばかりしてるし、離れる=悲しいという感情を自分で消し去ったのか、生きていればいつか会えるでしょ!という感覚なのか。

環境をすぐ受け入れるオーストラリア時代

オーストラリアでは、2階建ての大きなお家とプール付きの家です。プール付きだー!と感動しました。

母が広すぎて落ち着かないとのことで、2階で生活し、1階は子供の遊び場でした。部屋も多いのでもちろん私は1人部屋。

今考えると、7歳児がいきなり見知らぬ土地で1人部屋になったら怖がる気がするのですが、泣くこともはなかったそうです。1人部屋が嬉しかった記憶もないので、ただただそれを受け入れたのだと思います

”嫌われるを知った”学校生活

妹は現地の幼稚園。私は日本人学校。姉は日本人学校と現地の中学校。
この日本人学校で「嫌われたくない」という感情を持ちました

少し変わった子、今思えばなかよし教室に通うような子だったのではないか?とも思いますが、クラスの子に「近付かないで!」「触られた!汚いー」と言われているのを目撃して、「怖い」「自分がこうなるのは嫌」と強く思いました

なので、みんなと同じように行動して、みんなと同じように積極的に発言もして、周りから浮かないように必死に頑張りました

英語に関しては中途半端な時期に、しかも日本人学校で、英語漬けの生活になるわけでもなく、けど英語の勉強は強制的にさせられて「英語いや!!」と思っていたのを覚えています。
隣の家の現地の子に「あそぼー」と声をかけてたし、お買い物行ってたし、不自由ないくらいには話していたようです。

創造遊びが好き

家は本当に広かったので、遊び方が無限大でした。
子供の遊び場の1階は暗く、冬は寒い。
1人で行くとドキドキするけど、秘密基地みたいでワクワクして、プールの掃除におじさんが来た時は、ちょうど1階の端から見えるので、そのおじさんを敵と見立てて遊んでました

シルバニアの人形をコマ撮りで撮影して、勝手に人形が動いている映像を作ったりしていました
あれは完成度が高かったです。

母が工作や絵が上手だったこともあり、何か作ることや絵を描くことも大好きでした。

我慢せざるを得なかった

オーストラリアは飛んでいる鳥から日本と全く違うので、どこに行くにも新鮮でした。オーストラリア生活に不満はなかったのですが、日本のモノを買うために日本に行きたいな。と思っておりました。

何ヶ月かに一回セーラームーンを録画したビデオテープが祖母から送られてくるのが楽しみでした。セーラームーンの後、スラムダンクのオープニング「君が好きだーと」くらいでいつも録画が切れて、めっちゃくちゃスラダンが見たかったことを覚えています。
セーラームーンは次に送られてくるまでお預けです。たまに撮り忘れで1話飛ばされていた時はどこにも感情をぶつけられないし、送ってくれるだけでも感謝だし、日本に関することは常に我慢でした

何度か一時帰国をしたのですが、プリクラを取ったり、日本の可愛い文房具を買ったり、ショッピングモールがテーマパークです。行くたびに知らないものが増えていて、プリクラもレベルアップしていて、欲しいもの全部買えたらいいのに!と思っていました。

バス停にて。私、妹、いつもいた知らない子

日本に馴染むを頑張った5年生

5年生2学期に日本に帰国。
神戸の埋立地、六甲アイランドに住みました。
転校生には非常に優しく、すぐに溶け込めましたが、また「嫌われる」という事に怯え、自分を変えることに専念します

英語の授業の時、私の発音を聞いて、男の子が「うまいのを自慢してる」と言ったんです。この後の、他の子たちの反応は覚えていないんですが、みんなに馴染むためには「日本語英語にしないといけないんだ。」と自分の中で解釈をし、綺麗な発音を捨て、みんなと同じようにカタカナ英語で話すようになります

「一緒にトイレ行こ!」と友達に言われ「なんで一緒に行かないといけないの?」と聞いた後、”連れション”という文化があることを知り、次からはついて行くようにしたり、自分から誘ったり馴染むように頑張っていました

6年生の時は担任の先生が物凄くいい人だったからか、5年生のように息苦しくなく、学校が楽しかったです

やるからには結果を出したい

放課後はサッカー・バレー・バスケなどのクラブに入り、スポーツ三昧でした。サッカーの試合の日に熱を出し試合に出れなかったのですが、学校の集会でサッカーの試合頑張った人として立たされた事、試合に出ないと意味がないでしょ。と、とても恥ずかしかったです

文化祭ではお化け屋敷をして、お化けをとことんこだわりました。呪われた人形を作ったり、怖そうな人形の声を出してみたり、どうやったら人を怖がらせることができるか。と友達と一緒に考え、常に新しい案を出して実践していました。後半、怖いという噂が周り人が来なくなってしまったのですが、「工夫したで賞」という賞を受賞しました。

文集より「何にでも挑戦できる人になりたい」

小学校卒業後、持ち家がある兵庫県加古川市に戻ります。

自分を消しまくった中学生

小学生の時は学期の途中での転校だったので友達は向こうから来てくれるし、友達作りに苦労はしたことはありませんでした。

中学生初日、教室内では同じ小学校の子が集まっていたり、どこに話しかけてもいいかもわからず、誰かに思い切って話したけどそんなに長続きはせず終了。その後すぐに、肺炎を起こしかけるくらいの病気になり、入学式から間が空いて登校しますが、既にグループが作られていて孤立しました。

部活はテニス部に入りたかったのですが、顧問が怖く、さらに部の規則が劇的に厳しかったので、ラケット繋がりというだけでバドミントン部へ。部活も発熱のせいで参加が遅れたのですが、何グループか作られているうちの1つの明るそうなグループの人に声をかけて入れてもらいました。

真ん中がテニス部の怖い顧問。この光景全く覚えてないw

適当に選んだグループで3年間を過ごしたのですが、 ”どうやったらこのグループに馴染めるのか” と凄く頑張った3年間でした。流行りにも疎いし、過去の話もわからないし、話についていくのもかなり苦労しました。

人の噂話や悪口が大好きな人たちで、私も変なことしたら敵に回されるんじゃないか。と思っていた様な気がします。

たまに学校に行きたくなくて、冬はホットカーペットに体温計を挟み、絶妙なちょっと高めの熱にしてズル休みをしていました。行きたくない日がよくあったことを覚えています。

決めたらやり切る

中学校は10クラスあるマンモス校。バド部は人気のマンモス部活だったので、1年生は上位5位にならなければ体育館の練習に参加できませんでした。
体育館に入れないメンバーはずっと外でのトレーニング。外でのトレーニングは嫌だったので「絶対に5位に入る。」と決めて練習します

選抜試合までの外のトレーニングは1年生と2年生のレギュラー以外のメンバーで実施しました。1年生は暑いひなた、2年生は涼しい日陰で。たまに2年生が1年生がサボっていないかチェックする感じでした(2年生はサボってる)。
そんな2年生の監視を監視しながら、やらないといけないことはやって、サボってもいいところはサボって選抜では5位以内に入り、体育館への参加権利を獲得しました

1年生の途中か3年の卒業までずっとレギュラーとして試合に出ていましたが、1番になったことはなかったです。1位の人が上手すぎたため1位を取るのは無理だな。と判断し、試合に出るために2位を死守するという感じでした。

人と呼吸を合わせるのが苦手で、ずっとシングルスを担当していました。背もずっと低かったのでどうしても一歩相手よりも多く動く必要があり、走りまくって体力作りをしていました。ずっと粘り強くあきらめないので、愛称は「ゴキブリ」でした。酷い愛称…

バドミントンを知らない先生が部活の顧問をしていたのですが、2年生で経験者の顧問に変わります。指導方法が変わると劇的に伸びることに感動しました。もっと早く来てくれたらもっと上手くなったかもしれないのに!とめちゃくちゃ思いました。

部活の写真が1つもない

行きたいところにはいけない

5日間の職業体験のトライやるウィークがありました。
トリマー体験に参加したかったのですが、抽選でおち、事務体験のような一番人気のない場所に行くことに。何かをひたすら封筒に入れたり、シールを貼ったりする単純作業。おじいちゃんおばあちゃんとの社交ダンスをしたり、なんの職業体験をしているんだ。と本当に楽しくなかったです。

抽選では自分の希望通りになることが少なく、運で決定するものが嫌いでした

“お金”に気を遣う

どこかのタイミングで「うちは転勤貧乏だから〜」と母が言っていたのですが、実際お年玉もお小遣いも他の友達よりも少なかったし、うちはお金がないんだ。と子供ながらに気を使いまくっていました。

バドミントンの軽いラケットとラケットバッグを買って。とも言い出せませんでした。

ですが、ペットショップで見たシーズーに一目惚れをし、飼わせてくれ!と懇願します。このシーズーと一緒に暮らすと私の中では決まってしまったので譲れなかったんだと思います。

高校になったら自分を出したい

第一志望校を、学力2番目の西高に決めました。
が、テストに力を入れていなかった私は、内申点が足りない状態でした。

三者面談で、担任にも母にも「1つレベル落としたら?」と言われましたが、どうしても西高に行きたかったので内申点を超える点数を取る。と絶対に譲りませんでした。

表向きの西校に行きたい理由は ”制服が可愛い、進学校だけど自由だから” 本当の理由は、今まで自分を押し殺してみんなに合わせるように過ごしていたので、ずっと一緒にいたグループのメンバーが行かない高校に行きたいと思っていました。メンバーが行かない高校は西高しかなかったのです。

部活を引退してからは猛勉強です。
勉強は塾に行くことはせず、自分で勉強のスケジュールを立てていました。

姉には家庭教師をつけていたので一緒に私も勉強を見てもらっていたのですが「ゆきえちゃんには私は必要ないよ。」と家庭教師の先生に言われたくらい自分で勉強ができる子だったようです。

勉強は好きではないです。2年生まではやる必要性を感じてなかったから成績も悪く、内申点も低かったのだと思います。
3年生になって西高に入る事を決め、入るためには勉強が必須事項なので西高に入るための勉強をした。というだけだと思います。やればやるほど学校の成績と一斉模試の順位が上がっていくのが楽しかったです。

クラスの子はサバサバしてて面白かった

自分に戻れた高校生

高校デビューのシュミレーションをして「高校では自分を隠さない」と心に決めて高校生活をスタートさせました。
シュミレーション通りに順調に進みます。

部活はお遊びのバドミントン部に入部。
シングルが私よりも上手い人が他にいたので、初心者の人とダブルスを組みました。私自身が決まりに則ったダブルスの動きができないのが功を奏したのか、無茶苦茶に動く初心者の動きに合わせられ、奇抜なコンビとして楽しかったです。

ペアの人は進学校の中では問題児の成績も悪く校則を破る子で、思った事をすぐ言ってサバサバしている子。高校時代の私は自分の意見をしっかり言えるようになっていたので、多々喧嘩をしていましたが、すぐに仲直りをしておりました。

おめでとう高校デビュー

理系の方が特な気がする

国語が本当に苦手で、文章読解も漢字も成績が悪かったので「理系」を選択しました。

1年生の担任は国語教師。3者面談で「国語が嫌いという理由で理系を選ぶのは良くない」と言われたのですが、理系の方が女子が少ないから色々得しそう。とも思っていたので、意見は曲げませんでした

そして数学が好きでもなかったので物理よりも生物を選択しました。好きだからではなく嫌いだから。という理由で選んだ進路で何が正解だったかわかりませんが後悔はしていません。

やっぱり頭がいい先生は楽しい

2-3年生の時、新しい生物の藤原先生が担任になりました。

教科書にはない授業をする先生&知識量が凄すぎる先生で、毎回脱線して絶対試験に出ないだろう。という話を始めるし、難易度の高いものをわかりやすく面白く伝えてくれる藤原先生が大好きでした

ずっと素性は明かさなかったのですが、卒業式の日にいきなり黒板いっぱいに構造式を描き始め、自分は東京大学の大学院からきて、青色ダイオードに関係する研究をしてた。というシーンが印象強く残ってます。

先生は知識量半端ないので、東大出身に関しては誰も驚きはしなかったのですが、かっこいい別れ方するな〜と思いながら黒板を見ておりました。

文化祭は入賞させる女

文化祭は私の中では一大イベント。
名物は門なのですが、門は3年生が担当します。

2年生では文化祭委員に立候補?し、でかい事しよう!と巨大アトムを作ることになりました。

この写真には別のクラスの仲いい男子も写っているので、他のクラスも巻き込んで制作手伝ってもらっていたのだと思います。
みんなが驚くようなでかいことするのが大好きです。

見事展示部門で1位

3年生は門担当を勝ち取りました。ジャンケンではなく、どんな事をしたいのか、計画を作った気がするのですが、どうやって勝ち取ったのかは覚えてないです。卒アルには「文化祭めっちゃはしゃいでたね。」と書かれてありました。

ペットボトルと牛乳パックで作るトリケラトプスの門に決定し、担当を振り分け、監督的な立場で、私は進行が遅れているところの手伝いをしていた気がします。放課後ギリギリまで残ったり、近くのマクドで遅くまで作業しているのを学校の先生に通報され、先生に怒られたこともあります。

もちろん全体の1位

好きになる人は中身ではなく顔

3年間ずっと一緒のクラスだった一番仲の良かった祥子と好きな人が被ります(学年で1番のイケメン)。好きだとお互い行ったわけではないんですが、なんとなくお互い察していて、恋バナをした事がない一番の仲良しという、不思議な関係でした。

一番の仲良しといっても中学校のグループのように何をするにもいつも一緒。というよりも、一緒にいたい時にいる。という私にとって心地よいドライな関係でした。

ある時、私に好きな人がいると知っている友人から電話で告白されます。当時は固定電話で、母が電話をとりニヤニヤして渡してきたので凄く恥ずかしかったことを覚えています。

母姉私は家族間でもわからないくらい電話越しの声がそっくりだったのですが、"母が姉のふりして姉の友達と数分話す" という出来事で姉が激怒していた事を見てたこともあり、「母が親機で聞いてそうだな〜嫌だな〜」とそっちが気がかりで仕方なく、すぐ電話を切りました。

3ヶ月限定でいいからと持ちかけられ、嫌いではなかったので付き合いますが、好きにはなれなかったのでお別れをしました。(かっこいいと周りはいってたけど、私のタイプではない。)

顔が整っている人→恋愛対象、おもろい人→友人と、自分の中には線引きがはっきりしていいて、恋愛対象ではない男友達には距離感も女友達と同じように接してしまうので「近いねん。勘違いされるから気をつけなあかんで」と、一番仲がいい男友達に注意されたこともあります。

家を出て自由になりたい

特に何かやりたいことはなく、周りのほとんどが薬学部を目指すようなクラスだったので、私も手に職が良い!と薬学部も第一候補にしていました。

成績は上位だったので、私立の薬学部であれば推薦がもらえたのですが、学費が高いので推薦枠をもらうのは辞退します。

親に私立の薬学部に行ってもいいかの相談はせずに、自分で学費が高いから。と自分で決めたと思います。塾も高いし、自分で勉強できるし。と塾に行くこともしませんでした。特に節約を強いられたり、何かを買えなかったり、不自由なく生活していたと思うのですが、姉が専門学校に行ってお金がかかるから気を遣ってた気がします

第1志望校は広島大学の薬学部にしました。国公立大学の薬学部で一番可能性があった大学という立て付けにしていた気がしますが、門限が厳しく、心配性の母だったので、ただ下宿して自由になりたいという理由が大きかったです。

試験勉強は家で赤本や参考書をやって、放課後先生を捕まえて教えてもらうスタンスでやっていました。担任の職員室になっていた生物室で、みんなで集まり勉強していました。

成績がいい人は塾に行っていたので、自分の勉強よりも人に教える方が多く、語呂合わせを考えるのが得意だったので、暗記系は大体語呂合わせを作ってみんなにシェアをしていました。考える過程で私は覚えてしまうので、実際のところ作らなくてもいいんですが、いかに面白く覚えやすい語呂合わせを作り、友達を驚かせられるか!?に挑戦していた気がします

そしてセンター試験まであともう少し。という段階で、国語以外の教科はほぼ問題なし。国語が足を引っ張っていました。
現代文が全くできず、先生から「現代文を今から伸ばすのはむり。古文漢文だけを頑張って」と言われ、とにかく古文漢文を暗記する日々が始まりました。

家中に張り紙を貼り、お風呂でも暗記、起きている時間は全て古文漢文に費やしていました。ここまでやらないと目標には届かないと思い、自分で目標を立てて動いていました。見た目は不思議な文章をどんどん読めていくクイズ感覚で楽しんでやっていました。

楽しそうだね

波瀾万丈の大学受験

センター試験を大失敗しました。

古文漢文は100点近い点数をとれたため、課題だった国語は高得点だったのですが、問題がなかった生物で失敗してしまいました。

文章を読むのが苦手なのですが、今回の生物は長文問題が多発。東大の教授?が作ったようで過去イチ難しかったようです。文章を読めない私はボロボロ。逆に知識はないけど文章を読める人は点数がよかったようです。

生物をカバーできるほどの化学の点数もなく、前期受験は広大の別の学部にします。広大に行って家を出る。と決めていたので、広大以外の選択肢も考えなかったです。決めたらなんとしても曲げませんでした。
他の国公立の大学も見なさいよ。と今では思います。

そしてこのタイミングで父の会社が倒産し職を失います。それに伴い「私立受けてもいいけど、入学金払えない。」ということで、私立の記念受験を辞め、後期は絶対に受かる大学に変更しました。

前期の広大受験は、こちらも生物で大失敗。

問題を見た瞬間、過去問にはほぼでない捨てた部分の問題があり、合格しないことを確信しました。最後まで頑張りましたが、諦めがついたのか、清々しい気持ちでした。

気持ちを切り替えて中期の兵庫県立大学の入試。こちらはほぼ受かるレベルだったので特に何も気にしてなかったのですが、英語の試験の前に「幸江ちゃん広大落ちた。」という父が母へ送るつもりが私に送ってしまい、ちょうど私が見てしまうという事態に。落ちたとわかってはいたのですが、実際に落ちたと認識すると悔しくて、泣きながら英語の問題を解きました。

誤送信を母は凄く怒っていたのですが、「終わったことはしゃぁない」と母ほど怒ってなかったような気がします。

兵庫県立大学に受かり、残念ながら1年生の間は家からの登校ですが、2年生からキャンパスが変わり下宿ができるのと、県民は非常に安く通えるので結果オーライとしました。

やりたいこと全部やった大学生

中期の大学だったのでほぼ第一志望の人はおらず「前期どこ受けた?」という会話から仲良くなれ、色々な人と仲が良かったです。特定の子と一緒につるむのではなく、教室にいた子、食堂に行った時にいた時にいるグループに混ぜてもらう感じ。常に仲良くしているグループを見ると羨ましく感じるのですが、特定のグループに所属しない方が楽だったのでこのスタイルを貫いてました。

やはり音楽は続かず運動に行く

何があったか覚えていませんが、トランペットを吹けるようになりたい!と思い立ち、唯一トランペットが吹けるJAZZ研に入りました。

数ヶ月だけ頑張ったのですが、トランペットの高い音出せないし、JAZZもよくわからない、JAZZ研メンバーとも話が会わず、部室タバコくさいし・・・と面白くないなぁと思っている時に、バド部の人から女子部員に経験者がいないから入ってくれないか。と頼まれ、即部活を乗り換えます。

バド部は今は撲滅されているであろう超体育系で、新歓はでかい声で挨拶して、ビール瓶一気。先輩に粗相をしても一気コールが始まるので必死に飲み会マナーを一気をしながら覚えるという間の時間でした。

山の上から自己紹介をさせられて、合格するまで叫ぶ行事もありました。あれは何のためだったのでしょうか。
私は声がでかいので、数回目でオーケーでしたが、大きな声を出せない人が何回も挑戦していて、大変だなぁ。と見守っていました。

明らかにJAZZ研よりも大変でしたが、先輩が凄く面白い人ばかりでめちゃくちゃ楽しかったです。

バド部に入ってからはとにかく飲んでました。飲み会がある日は下宿している同期の家にお泊まり。めちゃくちゃ飲まされるのですが飲み会自体は全然苦ではなく、呼ばれたら行くし、はしゃぎ倒す日々を送っていました。

ある時から、部活の後に飲み会がない日も帰るのがめんどくさくなりました。

友人が学校の目の前の家に住んでいて、泊まらせてもらえるのになんで帰らないといけないんだ。と思い、友達の家を転々とする日々を過ごし、何回目かの母の帰って来い連絡で渋々帰り、そこから泊まりにくくなりバイトに熱中することになります。

いつ痩せたんだろうか。

生活の中心になるバイト

ずっとバイトはしたかったので、まずは大学生といえば家庭教師!という単純思考でカテキョを始めます。カテキョ先は最後にデザートを出してくれたり、待遇は非常に恵まれてましたが、子供の意思ではなく親がカテキョを依頼しているので子供にやる気がなく、言った事をやってないし、やる意味がわからなくなって数ヶ月で辞めました。

クリスマス前に母と一緒に工場のケーキ詰めバイトに行きます。ずっとケーキを箱詰めする仕事。ずっと同じ動作で面白くなかったです

同じ工場で、次は深夜に餅を詰めるバイトをしてみました。深夜なので時給も高い。餅は単純に袋に入れていくのではなく、袋の色に合わせて餅の数を変えていくシステムと、自分のペースでできる仕事だったので、いかに正確に早くできるか!という目線で楽しんでました。

夜を有効活用できることを知った私は、近所にあったガストで深夜バイトを始めます。

ガストのバイトは凄く面白かったです。
深夜だったので、研修期間が終わったらホールは1人。

大体暇なのですが、たまに団体客がきて、レジ締めをいつやるか。という駆け引きなど、現場の状況に合わせて状況を自分で状況を判断ですることを楽しんだり、

新人とペアで休日の一番忙しい時間帯を任された時は、新人に指示をしながらいかに滞りなく客とメニューを捌けるかゲームを攻略していく感覚で楽しみました。そのころのハンディ捌きは凄まじかったと思います。

店長のいない深夜は賄いにアレンジができるという特権付きで、なんでもアリなキッチン担当の時は創作料理が出てきてました。もう1人は無口で無愛想で真面目な人で、この人にどれだけ+αの賄いを作ってもらえるかの攻略も楽しみながらしておりました。

たまにヤクザ?の下っ端が来店し、大声で電話をするという迷惑なこともあったのですが、ある日、その下っ端が超腰低くしてお偉いさんを連れてきます。お偉いさんと2・3番手が同じ席、下っ端は少し離れた席、運転手は外に待機でした。

フロアは私1人だったのですが、ビビるよりもヤーさんのお偉いさんガスト来るの!?と、見たこともない光景と、いつも態度がでかい下っ端がめちゃくちゃおとなしいのと、序列すげー!と状況を楽しんでいました

「おすすめ何?」と強面のお偉いさんに聞かれ「いちごパフェです^^」と満面の笑みで答え、キッチンの人にオススメしたいちごパフェ頼んでくれた!!と喜んで報告したことを覚えています。

「パフェおいしかったよ。」と強面お偉いさんが帰り際に言って行き、やっぱ礼儀正しいやん!と感心しておりました。

普通ならビビりそうなこの状況、全く怖くなかったです。むしろ下っ端だけが来店した時の方が、何するかわからないので警戒していました。このお偉いさんは分別がつく人と認識したのだと思います。

細い眉毛が流行してた時代

夢が叶った自分の城

2年生からのキャンパスは山の上。なので、全員寮暮らしで80%が車を持っている。という状況でした。
私も車を買ってもらうのですが、どうせならみんな乗ってないミッションに乗りたい!と、母の兄のディーラーに探してもらい、ミラのミッションをゲットしました。

学費・寮代・家具代を奨学金を申し込んだのですが、前に提出した人の親の年収が4桁ありました。父の年収と比べて切なくなったことを覚えています。

待望の1人暮らし。4畳の小さな部屋に、冷蔵庫・小さなテレビ・ロフトベッドにして下に机をおいているので動けるスペースなんて限られているのですが、誰にも何も言われない暮らしは最高でした。

生活は雑で一番食べてたのは冷凍パンです。解凍しに廊下に出るのもめんどくさくてそのままかじってました。ほぼ寝るだけの部屋なので、ロフトの上に登ることもめんどくさくなって、下に布団を引き、ロフトの上が物置と化しておりました。

働きまくった大学生

やはりここでも部活の後にできる深夜バイト。
ど田舎なので深夜はコンビニ、マックスバリュ、ガスト、ラーメンの4択でした。コンビニはなんとなく嫌で、レジ打ちも暇そう、ガストは経験済と消去法でラーメン屋にしました。

このラーメン屋はおじさま達が
・仕事できない店長とバイト
・仕事できるけどコミュ力欠乏の社員
で最悪だったのですが、若者のメンバーがよかったので楽しかったです。

キッチンに入りたかったのですが、フロアを任されることが多く、フロアしながらラーメン出すのが早い人を観察し自分がやる時のシュミレーションをしていました。客が少ない時間帯は1人営業になるのですが、その時は1人で早くこなすのがすごく楽しかったです。

話しかけても面白くない社員と会話をほぼしなかったせいか、シフトが減らされた時期があり、ちょうどその時ガストの深夜が足りてないことを友人から聞き、即戦力になるから即採用で、ラーメン屋とガストの掛け持ちをすることになります。

テスト時期にはバイトに入りたい人が少なく、率先してバイトに入ってました。ガストに来た友達に、バイトしながら勉強を教えていましたが、教えたいというよりもバイトしながら勉強できてラッキーの方かもしれません。
テスト1日前に理論を聞いてきた友人に「理由を知りたいなら早く勉強しなさい。もう時間ないから、つべこべ言わずに今は丸暗記しなさい。」と突き返していました。

am1時までラーメン、その後ガストで6時まで、寝て1限目から授業、部活、バイト・・・という恐ろしい生活。
ここまでバイトをしなくても十分食べてはいけるし、ブランド買わないし、お金の目的でここまで働いていたわけでなく、この超絶忙しい生活をこなすことを楽しんでいました

いつ勉強してたのか謎

毎回代筆をお願いしていた人もいたのですが、私は代筆をお願いするのが卑怯に感じたので、たまに寝坊はありましたが出席していました。
唯一面白かったと記憶しているのは、有機化学の反応機構。パズルのようでめちゃくちゃ面白いと感じて、わからない部分は教科書と睨めっこして読解していました。

面白くなかったのは実験。理学部なので実験時間が長いのです。終わりが決められているわけではないし、待機時間が長すぎる時もあるし、終わった後のレポートを書くのがめんどくさくて憂鬱でした。

試験勉強はほぼ過去問。バド部に引き継がれている過去問をコツコツと勉強していたんだと思います。。このスケジュールでいつ勉強していたかは本当に謎ですが、無難に単位を取得していました。

全権委任されたバド部

バド部は女子も男子も一緒に部活をするのですが、女子部と男子部に一応分かれ2人部長体制で仕切るようになっていました。

男子部部長は意見が割れたようですが、女子部部長は全員一致で私だと、先輩から「部長をやってくれ。」とお願いされました。面倒見が良くて、周りを巻き込んで先導できるなど、めちゃくちゃ褒められて照れ臭かったです。

男子部部長には体が弱いのか休みがちな人が部長になり、案の定休みがちで、全て私がやらないといけない羽目になりりましたが、全部自分で抱えるのではなく人に任せていました

私は練習嫌いなので私がメニューを考えると絶対に楽になると思い、アップメニューを考えるのが好きな人に任せる。
私は細かいことは苦手だから、1年の幹事はフォローできる人に任せる。

というように、私が苦手な事は得意な人がやった方がいいよね?という感覚で任せていました

後輩で元気がない子には飲みに行こうよ!と声をかけてよく飲みに行ったり、3年生になってからは、1年生が元気ない時には一番交流のある2年生に話聞いてあげなよ。と全体の中の沈みを見つけ、それを対処するのが得意だったと思います。

超怖いけど、めっちゃ優しい先輩と言われてました。
二重人格ですね。

私がメニュー作ったら、こんなに疲れるメニューは絶対ならない。

ラッキー卒論

先輩から、「かなり卒論大変だった。入る研究室によって大変さが変わる」と聞いていたのですが、どうせやるなら面白そうな研究がいい。と面白そうな研究室に応募しますが。落選。眼中にも入ってなかった研究室へ入ります。

そして最悪なことも、卒業までに結果が出ないかも。と言われスタートしました。

何かの遺伝子組み換えの実験で、駒込ピペットで数μ単位で容量を変えながら、氷皿の細かい版の容器に加えていきます。単純作業&細かい作業が大嫌いな私にとっては本当に苦痛でした。ある日、どこまで入れたかわからなくなり、当てずっぽうでここまでやったかな?とやり直さずに再開し、実験に成功してしまいました。

遺伝子組み換えを確認できた写真が取れたので、私の実験は終了。
ですが、ちょっとばかしアバウトになってしまったため、再現がなかなか取れなかったようで助教授は苦労しておりました。
もう再び同じ実験をしたくない一心で秘密にしてしまったのですが、この時アバウトにやってしまったと言わなくて・・・本当にすいませんでした。

1学期に、棚ぼたで卒論を描き終えた私は暇になってしまいました。

暇になったのでマクロを習得する

卒論が早く終わっても研究室には行かないといけなかったので、暇つぶしにPCマニアの先輩からマクロを教えてもらうことにしました。
「天才すぎて何言ってるかわからない。」が最初の印象でした。

本を貸してもらって(本の方が確実にわかりやすい)、本を見ながら進めて、わからないところは教えてもらう。という方法で進めていき、遺伝子配列のデータを貼り付けたらエラー部分が色転するようなマクロを作りました。

完成した!と思っても、どこかがおかしくて正常に作動しない。
どこか間違っているのか探して、修正してみての繰り返し。
実験とやっている事は一緒な気がしますが、「卒業までに終わらないかもしれない」と言われてやっているは面白くなく、「確実に完成することがわかっていることのエラー」を探すのが面白いだと思います。

就活

もう研究は絶対いやだったので、研究ではない仕事を探します。
ですが、兵庫県立大学理学部は研究職を育てる大学なので、研究職以外の情報がほぼなく進路指導室も使い物にならないので、ネットで探しました。

やりたいことも特になく、お金を稼ぎたい。という気持ちしかなかった私は「年収 業種」と言った単語で検索し、初任給から給与がいいMR職を発見し、特に何をするのか検索する前にMRになると決定していたと思います。

MR職として、私は第一三共かアストラゼネカが良かったのですが、2社だけ受けるのも不安だったので一応複数面接しました。が、興味がない会社は下調べも忘れ、旧大日本住友製薬の志望動機が言えなかったのは気まずかったです

入社したかったアストラゼネカに入社します。

卒業時の寄せ書き

鍛えられ独身を謳歌したMR生活

鬱の怖さを知った新人研修

6ヶ月間研修施設に缶詰で、MR試験の勉強・自社製品の勉強・プレゼン等々の詰め込み教育をされるわけです。勉強は大変でしたが、大学生の延長でしかなく、グループが一緒になったメンバーとも気が合い、毎日のように馬鹿騒ぎして楽しんでおりました。

その同じグループの1人が鬱になり(知らなかった)、ずっと話を聞いてあげていた私もやばくなっていた様で、様子がおかしい事に研修部が気付いてくれ助かった出来事もありました。その子は会社を辞める決断をした後めちゃくちゃ明るくなったんです。鬱の怖さを身をもって体感した経験でした。
ちなみに私は、明るくなれたことがめちゃくちゃ嬉しくて号泣してました
。(別れで泣かないのにw)

研修の最後は配属先の辞令です。
配属先が書かれた紙が1人1人配られ、私は「愛知県 岡崎分室」。
封筒を開けるなり泣き崩れる人もいたり、多くの人は地元に行きたかったようで一喜一憂しておりました。
私はむしろ離れていた方が嬉しいと思っていて、愛知県は、寒くなくて良かったー。真ん中便利やん。という評価です。

恩師に鍛えられた若手時代

岡崎市には2人配属され、送られてきた荷物の字が綺麗な方を先輩担当先、もう一人は上司担当先。という決め方で配属先が決まったようで、私は字が綺麗な方だったとのこと。

私は、先輩に教えてもらいながら、先輩の担当先を引き継ぐ。
もう一方の同期は上司担当で、ほぼ新規開拓状態の担当先を受け持つことになりました。先輩は会社内の一部にものすごく嫌われている方、上司は自分の武勇伝を大切にしている方、どちらにしても癖のある方々です。

この同期は、上の人と話す時可愛らしく豹変するような、裏表がありまくりのめっちゃ苦手なタイプの人でした。

そんな同期と家を一緒に同じ車で探さなければいけなくなりました。
配属先の関係上、私は南側、同期は北側で家を探すことになったのですが、配属先の不満があってか、家も南側の方がいい物件がたくさんあると、ずっと妬みを言われていて、早くこの時間が終わらないかなぁ。とずっと願っておりました。

その後もずっと、「私が成果が出ないのは新規開拓だからだ。いいよね後任として活動できるのは!」という嫌味?妬み?を言われ続け、特に何も言い返しませんでしたが「あなたが先輩についていくのは無理よ。てか新規開拓でも私だったら成果出せるし。」と、心の中では思っていました。その同期はどこかのタイミングで辞めていきました。

恩師の先輩は自分のスタイルを貫きすぎるのと、頭がキレすぎて刺したら刺し返すような人だったので、上層部の一部に嫌われていたのですが、私はこの人についていけばいい。と早々に判断し、上司ではなく先輩についていくと決めました。他の社員と話す時は先輩のアンチか否かを判断し、話していたと思います。

まず最初に教えてもらったのが「30%の活動で動くこと」100%で動いていたら何かあった時に対応できないから、という理由だったのですが、午前中に一件訪問して、その後は一緒にドライブにいく。という所から始まりました。

めちゃくちゃ綺麗な景色のところに連れて行ってもらったり、説明会のお弁当持ってゴルフ場に行き、ゴルフツアー見ながらお弁当食べたり、映画館・パチンコは言い訳できないからだめなど、安全に70%サボる方法を徹底的に教えてもらえたのです。

KPIは10件訪問だったし、研修で学んだこととは全く違うし、普通ならヤバいと思いそうな気がしますが、私は、先輩は成績もよかったので、このスタイルで成績いいってやばくない!?とさらに尊敬しました

「このスタイル教えるのって危険じゃないですか?なんで教えたんですか?」と先輩に聞いたことがあるのですが「こいつなら大丈夫だって思った」しか教えてもらえませんでした。

「言ったらすぐにやるし、秘密は絶対に守るし、後任として託しやすかった。」とのことですが、100%黒の状態で引き継いだ先を、私はできる限り白くして後輩に託す必要があり「地雷を渡されたのか!」と先輩に文句を言いまくっていた。文句を言ってはいましたが、実際はどうやって白にして引き継ぐかのミッションを楽しんでおりました

家族がらみで仲良くなることも多く、奥様からプレゼントをもらったり、ゴルフを教えてくれていた先生はゴルフクラブを買ってくれました。
休日にゴルフの練習を先生と一緒に行ったりもしていたのですが、休日に仕事かよ。とは思わず普通に友人とゴルフの練習にいく感覚で楽しんでいました。

食事やゴルフの接待の規制が入り、この煌びやかな営業ができなくなってからは、本当に楽しくなかったです。
初めは偽名を使ってゴルフコンペに参加したりしていたのですが、勤務地が変わったタイミングで辞めました。

AKBを全力で踊った忘年会

親に仕送りをする

車が壊れて車を買わないといけなくお金を貸してくれ。と言われ月10万円振り込んでいました。お金貸してと子供に言うのは本当にないんだろうな。と、なんで振り込まないといけないんだ!という反発はなく、私にとって振り込むのは当たり前の行動でした。

母を楽させてあげたい。楽しませてあげたい。という気持ちがあり、ディズニーランドに招待した事もあります。父はこの時佐賀で職を見つけて働いていて、父も苦労を重ねてきた人生ですが、やっぱり私にとって母の方が重要なようです。

サボりながらノルマ達成をし続ける

接待ができなくなってからはキャラ売りではなく戦略に変更です。

期の初めに、上位数施設を何%伸ばせばノルマが達成するか割り出し、上位数施設を狙い撃ちで活動していました。
エクセル上でノルマが達成するのは楽しく、会議中に遊んでいました。

30%の力で成果を出すには、数字もですが、サボっている事を上司に悟られない事も重要です。いい評価を受けるために、会議では率先して発言する・報連相を怠らない・上司同行は難航している所&超重要先にのみ訪問し、数が回れない様にする事など「どうすれば上司は部下を評価するのか」という目線で観察しながら行動してました

名古屋市に転勤になった時、上司が新任だったのですが、チームの覇気はなくなるし、ついて行きたい上司ではありませんでした。数字を作ってといい顔して他適当に行動していましたが、数字以外もめちゃくちゃいい評価をしてくれ、騙すのチョロいなーと思っていました

次の上司は人を動かすのが凄く上手な人で、チームも活気よく仕事が楽しかったのですが、その上司がすぐに転勤になりかなりショックでした。送別会の時に言われたのですが、うまいことやってた事は見抜かれてました。

上司によってやる気が左右される私ですが、だからと言って理想のマネージャーになってチームを引っ張っていきたい!と思ったことはありませんでした。
・チーム評価が入るので給料下がる場合がある
・めっちゃ忙しそう
・医療業界なんてずっといるもんじゃない
3番目が一番強い理由かもしれないです。次に何をするか考えてはいませんでしたが、業界を考えた時、ずっといるものではない。と思っていました。今は給料いいし、有給取りやすいから働いているだけ。という感じです。

スリルを味わうために旅をする

MR仲間と夫と出会ったグループはすごく仲が良く、よく旅をしていました。

ただ一つの県しか行かないのはもったいと、九州一周、四国一周、北海道横断など1回の旅で様々な地を巡りました。ガチガチに予定を決めて行くよりも泊まる宿だけ予約してノープランで行くの方が好きでした。

マカオでバンジー、グアムで銃体験やスカイダイビングなどやったことないアクティビティがあればとりあえず何でもやってみました。
ちなみにマカオバンジーは61階からのジャンプ。56階の待機所で高さを確認したグループは挫折したので、飛びたい方は一気に61階まで上がることをお勧めします。飛ぶ瞬間まで下見ちゃダメですよ。

61階から見る、窓越しではない夜景は綺麗でした

カジノでは一緒に行ったメンバーはルーレットや大小をやっていましたが、駆け引きがないので面白くなく、ずっとポーカーをしていました。ストレートが手持ちの時、ディーラーがフラッシュを出したことが忘れられません。悔しかったです。

「来週ドイツのオクトーバーフェスト行くんだけどいく?」と会社の人に誘われた時はめっちゃ行きたくて、もっと早く誘ってよ!と思いつつも仕事の予定を調整して行きました。
ノープランで行くようなメンバーだったので全て行き当たりばったり。オクトーバーフェストの会場に入る方法は周りを見ながら謎解きをするようで楽しかったです。
会場にいる人みんな友達。隣のドイツ人とほぼ日本語で話していました。2リットルを2杯飲むと記憶が飛ぶことも大きな学びでした。

撮影者も酔っ払い

合コン三昧からの結婚

愛知県配属後、1年ほど顔が全く好みではない人と付き合いました。
この頃、市販のルーやだしパックなどを使わずに1から作ることに熱中しており、それを褒めてくれたので料理が一層楽しくなりました。しかし、本当に失礼なのですが、顔が好みではなかったので段々受け付けなくなってしまいました。お別れをした後は合コン三昧でした。

飲み会でも何でも誘ったら来る。という私だったので合コンに声を掛けてもらうことが多く、セッティングはしたことないのですが頻繁に参加してました。

合コンではいい人がいたらいいなーとは思ってましたが、全額奢ってもらうミッションを水面下で走らせたり、研修医との合コンの時はお互いの会社名をシャッフルしてバレないようにするゲームをしたり、最初に決めたゴールをいかに達成できるかどうかのゲームがむちゃくちゃ楽しかったです。

合コンで知り合った人のグループと遊ぶようになり、そのグループにいた1人と付き合いし結婚するんですが、恋に落ちたというよりも、この人の子供が欲しいと思ったわけです。

顔が整って堀が深い・九大法学部卒で頭いい。そんなにお金は気にしてませんでしたが、大手ゼネコンで年収も1,000万行く。面白いわけではなく多分根暗だけど問題なし、身長が低いのが悩まれるけどそこは妥協しよう。と結婚を計画している当時26歳の私はこの人と結婚して、この人の顔の子供を産むと決めたのでした。これを人に言うとドン引きされます。
オチとしては、生まれた子供2人とも私と一緒の顔。

私の計画では27で結婚、30までに1人出産でした。計画は順調に進み、お付き合いもできたのですが1年経って結婚を仄めかしてくるのに何も言ってこないです。もう待てない。と、結婚せざるを得ない状況を作ろうと決行します。

一度旅行に行った時に結婚式会場の食事会に参加して食事がめちゃくちゃ美味しかった思い出があるので「だいぶ前に行ったような結婚式会場の試食会があるから行こうよ。」とスケジュールを抑えて、結婚式をあげたい式場をリサーチの上3ヶ所予約し、同じ日にハシゴしました。

真剣に検討したものの最初の2件はボツで、3件目も微妙な会場だったらどうしようか、今日作戦決行できなかったプランも考えないと。と思っていたのですが、3件目はいい感じ。プランナーさんが「仏滅なので、気にされなければこの日はかなりお得です。」と言ったので「この日にしよう!」とその場で決定しました。

現夫はかなり驚きつつも、その日空いているか親に焦って電話をかけていて、私は家族のグループLINEに「プロポースの前に結婚式の日程を決めました!」と送り、「良くやった!笑」と母。

他の人をは違うおもろいことをしたい

当たり前のようにみんながしている前撮り、ただ綺麗な写真を撮るのに興味はなく、どこを見ても同じで、しかも高い。これなら別に撮らなくてもいいかな。と思っていたのですが「雪山で撮れたら面白くない!?」と閃き、北海道でスノボしながら前撮りできるところを発見します。

撮影は、ドレスを着たままリフトに乗り、滑りながらの撮影。ドレスで滑ること自体難しいのにコケたら駄目と言うスリルもあり、二度と味わえない体験でめちゃくちゃ面白かったです。

滑ってる時は寒くないんです。

"愛想良く"はできない

運動を始めようと、接待やゴルフがなくなったタイミングで社会人バドミントンサークルに入会しました。毎週土日に活動し費用も高くなく条件が最高だったのですが、サークル創設者が扱いにくい人でした。

「彼に敵視されると嫌味を言われ続けるから気をつけた方がいいよ!」とメンバーから言われましたが、そこで気を遣う労力以上のメリットがなく、適当に過ごすことに。かなり嫌われていましたが、気にしなかったらいいだけなので、他の楽しいメンバーと共に過ごすことで楽しい時間を過ごすことができました。

結婚して嫁いだ先でも愛想良くはできませんでした。
一応初めて夫実家に行った時はお手伝いしましょうか?と声をかけましたが、ゆっくりして!と言われ、それ以降、断られるのに声をかけるような事を続けられず今に至ります。

大学生のバイトの時も無愛想な社員さんには話しかけずにシフト減らされたし、無理に付き合いを頑張ることは苦手だと感じます。

結婚前は正しく書かれない、結婚後は正しく呼ばれない

私の旧姓「安陪」は、日本でわずか800人しかいない珍しい「あべ」です。そのため、書類や年賀状が正しく書かれていることは稀で、正確な表記を見つけただけで盛り上がるほどでした。名前は「さちえ」ではなく「ゆきえ」と呼ばれることが多かったです。

結婚して河野(こうの)になった後は、頻繁に「かわのさちえ」と苗字も名前も間違えられるように。対応策として、名前の表記を全て平仮名に変更しました。

旧姓の時は「あべちゃん」や「あべっち」と呼び名は苗字のみ。河野になってからは「ゆきえ」で呼ばれることが増え、新しい呼び名に慣れるまで時間がかかったり、振り返ると名前に対してプチストレスを感じいている人生です。

ちょっと無茶した妊婦生活

結婚して2年で授かりました。待望の妊娠だったため、本当に嬉しかったです。妊娠した後はつわりも全くなく、特に苦労のない妊婦生活を仕事をしながら送っていました。

つわりが酷かった人には怒られると思いますが、一般的に妊娠といえばつわりが伴うと思い込んでいたため、今しか体験できないつわりがなかった事は非常にショックでした。
2人目もつわりなしでした。嬉しいことなんですけどね。

そしてこの妊娠中、期末まで残り2ヶ月のタイミングで、私のチームが全国1位を目指せるポジションだったこともあり、1位を取りに行くかどうかの会議が行われました。

1位争奪戦は凄まじいものです。
ノルマを達成しても来期分前倒しで数字を作り続けないといけないため、”来期が大変になっても1位を取りたい”とチーム全員が思わなければ目指せません。ですが、目指したい派が多いチーム会議で「狙いたくない」と言える雰囲気でもなく、全員で「1位を狙う」という合意を取りました。

もちろん私は狙いたい人です。これから産休育休2人連続取る予定で、この機を逃すと二度と1位を取れない可能性があると思ったためです。
毎日数字の管理。他の課の予測をして薬局に1箱でも多く買ってもらう合戦が始まりました。

チームを引っ張るのは上司と怖い体育会系先輩。後輩たちは「上司に本音言わない」「その先輩は怖くて本音言えない」YES メンズだったため、私は個別対応をしていきました。1位を取ることにストッパーがかかってそうな後輩とランチに行って腹割って話したり、熱量が冴えめてる先輩にはもう1人の先輩から声かけてもらったり、上司から情報もらったり、とりあえずブレーキがかかりそうな部分はコミュニケーションを欠かさずにフォローをする日々でした

後輩たちとは、1位をとった先に自分の希望が叶うことをイメージしてもらい、 今期無茶した後の来期の数字作りのシュミレーションをしたりしていました。最後の最後まで追い込み、表彰会で課の名前が呼ばれた時は、今までの成果の中で1番嬉しかったです

そしてチーム1位のご褒美は上海研修。去年まではアメリカで今年になって上海になったのでブーイングでしたが、飛行機時間が短い方がいい妊婦の私にはラッキーでした。

ですが、上海旅行に行く時期は妊娠後期。日本の保険には加入できない時期のため、もちろん産婦人科の先生からはNG。
悩んだ末、このメンバーで上海にいく機会なんて二度とないから行きたい!と、上司に懇願したところ本部長クラスが動いてくださり、責任は会社は追わないとの条件で行かせてもらえるようになりました。
海外の保険ならまだギリギリ入れるものがあったので、頑張って解読しながら加入し、絶対心配するので母には言わず出発をしました。

今思えば無謀だったと思いますが、諦めた時の後悔の方が大きかったような気がするので、無理に参加してよかったです。

母になり今後の人生を考え始める

出産前まで自分の今後を真剣に考えたことはありませんでした。会社で定期的に提出していた5年後の計画も5年後なんてわからんわ!とかなり適当。「上に行きたい気持ちはある。」とやる気がありそうに書いていたくらいです。

独身時代は特にこれがやりたい!いくら稼ぎたい!という欲望もなく、ただ今が楽しかったんですよね。でも出産すると息子がめちゃくちゃ可愛くて、息子と一緒に過ごす時間をイメージした時「これからも今と同じライフスタイルは嫌かもしれない」と、ライフワークバランスを考えるようになります。

MRのネックなところは時間が早く遅いところ。時短勤務してまでやりたいとも思わないし、価格交渉もしないMRは営業として転職するのは難しいと聞いたこともあるし何かいい方法はないか・・・とずっと色々なパターンのシュミレーションしていました。

「給与がいい会社に、それも子持ちで転職するのは難しい。」「会社員として働いても状況は変わらない」と判断した、家で今と同じ給料レベルを稼げるのか検証するためにとブログとFXをしてみました。

ブログではSEOなど勉強して服作りの記事でGoogle上位を取り、かなりアクセス数稼げたんですが、費用対効果が悪すぎてやめます。
FXも10万円稼いだんですが、1日中画面と睨めっこするようになってしまい、これ以上はやばいと思いやめます。
やると決めたものはネットで調べる・本を漁るなどして達成はしたのですが、結局、1人目の育休中に見つけられませんでした。

ブログでも上位を取れた服作りは、息子が生まれてからハマりました。妊娠前は酒飲み&アウトドアしかしておらず、妊娠中何もすることなくなり、里帰り出産をした時に実家にあったミシンを触ったのがきっかけです。

服が作れる人は凄いと思っていたのに、作ってみたら単純な構造やん。と、何個かパターンから作った後、大学で使いそうな本を取り寄せたりして製図を勉強し、製図から服が作れるようになりました

育休中に妊娠してさらに産休を繋げる予定だったのですが、上手い事いかず、復帰します。

初めて作った服

転機の2人目の育休

申し訳ない事に、復帰してすぐに授かり、更に切迫早産になってしまい復帰してから半年で挨拶もできず現場を離れる事になりました。

切迫早産中は暇すぎて、編み物はやったことがないのに、記号だけ書いている編み物の本とネットで調べながらベビードレスを完成させたり、刺繍のやり方をネットで調べて物凄く細かい刺繍をしていました未知の物を解読していく過程が楽しかったです。     

手作りベビードレス

原因不明の出血での切迫早産だったため、大ごとになることなく2人目の娘を出産しました。

退院した後は男の子の服しか作ったことがなかったので、女の子のフリフリ服を作るのが楽しく、更に服作りにのめり込みます。新しく買ったミシンを習得するために2歳と0歳の子供たち連れて教室に通ったり、色々なものが作れるようになるのが面白くて、めちゃくちゃ勉強しました

2人目が産まれてMRを辞めたい気持ちが更に強くなり、服販売もしてみます。鬼滅ブームに乗っかったこともあり、売れたのは売れたのですが、子供以外のために作るのは全く面白くなくやめます。

産休の後半に入ったのにも関わらずMRを辞める突破口が見つからないため、本を読もう!と思いたち、本屋に行って適当にビジネス本を買ったのが私の転機でした。
ホリエモンの本の中に「みんな起業すればいいのに」と書かれており、これからの自分の選択肢に起業という道があり、それは誰でも挑戦できる事を知ります。

自分の今の問題を解決してくれるものな気がして、YouTubeで起業に関する動画を見たり、もっと本を読めるようになりたいと速読を始めたりしましたが、時間がなく、起業の準備もする事なく育休があけます。

てきとう育児

育児に関しては姉と妹に先輩ママがいたのが大きかったと思いますが、特に心配することなく過ごしました。ママ友が何かと子供を心配していたのですが、今からそんなに心配しなくてもいいんではない?とよく思ってました。

離乳食も1人目は適度に頑張りましたが、「昔は今のように丁寧にしてなかったよ!」と母から聞いてたこともあってか、海外で赤ちゃんに肉の塊を食べさているテレビを見た後、息子にも肉の塊を渡してみたり、1人目から楽しんでました。

息子が7ヶ月の時、たまらなくビールが飲みたくて、1杯だけ飲んだら息子が授乳を拒否するようになり、棚ぼたで早々に離乳できたり、

一瞬でもいいから私から離れてくれ。と息子を2歳からできるサッカースクールに通わせたり、一般的に言われる"子供に尽くすできたママ"とはかけ離れたママでした。

※息子は帽子がいや

崩壊したママMR

1歳3歳を世話しながらの復帰は心身共に堪えました。

初めの方はうまく両立できないか試行錯誤頑張りました。
食事は土日に平日の作り置きをしたり、キットを使ったり、朝早く起きて準備したり。食事以外の家事はほぼ土日にして・・・と頑張ってはいましたが常に時間との戦いでイライラばかりしていました。

仕事中は子育てを忘れ楽しめるのかと期待したのに、復帰後の上司は頼りなかった元新任上司で、特に昔と変わってはおらず、仕事への楽しさも皆無になります。

復帰して2ヶ月くらい経った時、朝の出発時間に泣き止まない子供たちを叩きそうになったのを抑えて壁を叩き、車を運転しながら涙が止まらなくなってしまった時、精神的にもうやばいと判断し退職を決意します。

もう一度起業についてのyoutubeを見始め、直感で決めた起業塾に申し込み、上司に辞めます!と電話で伝えました。

がむしゃらに走った独立準備

退職は4ヶ月後。退職までに収入源を確立する。という目標で動きました。

私ができることは営業か洋裁。営業はレッドオーシャン、この中で際立つ飛び抜けた才能もないと思ったので、洋裁で行こうと決めます。リサーチをしまくって洋裁の中でもライバルが少ない子供服に旗を立て「オンリーワンの子供服」としてブログやインスタの発信を始めました。

1回目の育休中に作ったブログは消してしまっていたのでもう1度ブログを開設。1年前のことを思い出しながらSEOなどを整え、さらに鬼滅ブームに乗っかって鬼滅関係の記事でバズり、公式LINE登録者数も着々を増えていきました。

仕事から帰って、子供たちと一緒に寝て2時か3時に起きてブログやyoutubeの撮影、仕事の合間にHP作りなど、やった方がいいと言われたものは実行し、退職を決意して辞められるまでの4ヶ月は睡眠時間を削っての活動でした。

このように活動できたのは、「MRを辞めたい」と考えたことも理由の一つですが、退職を夫に相談したところ「辞めるなら、同じくらい稼いでよ」と言われました。「なぜ辞めたいのか」とは一切聞かれず、そのことで腹が立ち、「絶対に夫にはお金を借りたくない」というエネルギーで動いていました

商品を作ってから売れなかった場合、時間が無駄になると思い、公式LINEの登録者に向けて「〇〇を作る講座はいかがですか?」や「これから〇〇講座をリリースしようと考えていますが、どう思いますか?」といった質問を投げかけましたが、その反応は1人か2人からのものがある程度で、そんな状態が3ヶ月間続きました。

その後、これまで提案してきた「〇〇服を作る講座」を振り返ったりお客さんとコミュニケーションする中で、私が本当に実現したいのは「何でも作れるようになることであって、お客さんもそれを望んでいる」ことに気付けたのです。

そこで「何でも思い通りに子供服が作れるスクールを立ち上げます。実績も教材もまだありませんが、自信とやる気はあります!」というメッセージと共に告知行ったところ、予想外にも6名の生徒が集まり、講座開始へと至りました。MRとしての仕事を続けながら教材を作成することになり、非常に忙しかったです。


収入はないけど外注する

教材はスクール開講までに1ヶ月分だけ作り、以降はイタチごっこで製作していきました。動画を撮影して編集して、ミス部分を見つけ取り直して・・・の繰り返し。SNS発信を止めるのも怖かったので同時にSNSの更新もして大忙しでした。

Premiere Proを使いこなすための学習自体は楽しかったのですが、編集作業自体は好きではなく、そこそこ使いこなした後は作業中に寝落ちしてしまう状態が続きました

教材を早くリリースしたい。同時にSNSも投稿したい。この願いを同時に叶えるためには動画編集の外注の選択肢しかなかったため、収入はない状態でしたが外注します。スクールが完成しても生徒が集まる保証はありませんでしたが、現状を続けたら無収入が続くのは確実な未来と思いました。

外注探しは宝探しのようで物凄く楽しかったです。まずは実績のある方にお願いし質の高い人を仕事を確認します。その後は比較的安い10人くらいにアプローチし、途中コミュニケーションができない方には返金はいらないので辞退してくださいとお願いしたり大変でしたが、最終的にはめちゃくちゃいい人を見つけました。

月40万初めて稼げた時、集客力強化のためにYouTubeを2日1回UPしようと決め、月20万円で技術がある人に外注を決意。かなりドキドキでしたが、ここで課金しなければ売り上げ伸びないと思い、結果月100万くらい稼げるようになりました。

広告に切り替え放置中・・・けどもう少しで1万!

旅の楽しさを思い出し、コーチングに出会う

独立を機に個人事業主と繋がりを持ちたいな。と思いYouTubeを見ているとforyouという事業主コミュニティを見つけました。特に他をリサーチすることなく直感で入会し、入会すぐ屋久島合宿に申し込みます。

名古屋在住で、実家が長崎と兵庫のため、子供を連れての長距離移動はしていましたが、3人で出かけるのは初めてです。しかも2歳4歳なりたて。

3人での移動は不安がなかったと言えば嘘になりますが、それよりも仕事辞めたし平日動けるし行きたい!の方が優っていました。道中は記憶にないほど大変だった気がしますが、旅の楽しさを思い出した出来事でした。

そして私の人生の転機となるコーチングにこの屋久島合宿で出会います。その時の私は、コーチングの名前は聞いたことあるけど具体的に何がどうなるのかの解像度は全くない状態で、とりあえずみんなと一緒に受けるという姿勢でした。

コーチングで印象に残っていることは
・want toの特定(want toワーク)
・才能の解像度を上げる
・メンバーの方々

want toのワークは、そもそも自分のことを内省してこなかった人生なので全く出てこず。他の人よりもスカスカのwant toしか特定できませんでした。もっと自分を知りたい。と内省をする大きなきっかけになったものです。

才能の解像度に関しては「達観」というネーミングをいただきました。色々覚えている範囲でエピソードを話し命名してもらったのですが、物凄く嬉しかったことを覚えています。

この2点は新しい自分を知れたな。という印象で、コーチングができるようになってみたい!と思った事柄ではなく、最後の「メンバーの方々」を見たことで私もコーチングをやって見たいと思います。

メンバーの表情が明らかに変化したんです。

ただ嬉しいという顔ではなく、何か芯が通ったような、使命感を与えられてキリッとしたような表情。そして顔の周りには✨✨✨✨が浮かんでいるような感じ。

え!?この変化すごくない??
こんなに短期間でめっちゃ変わったやん!!!
私も使えるようになりたい!!!
心の中はこんな感じで感動が暴走していました。

そして即オーナーが学んだmindset coaching schoolに申し込みます。

コーチングスクールで崩壊を味わう

物事を深く考えず直感で生きてきたような人生です。先ほども書きましたが、自分を振り返ったことはほぼありません。

コーチになるためにまずは自己適応が全てで、そのために内省が必要なのですが、まだまだ自分の過去はほぼ見えてこない状態。そのためwant to特定も何もかもペラペラの状態からスタートしました。

でもこの状態でも、今までうまいこと人生を乗り切ってきたこともあってか、危機感もなくスクール長李さんの15分セッションを受けます。

本当にほぼ準備をしないペラペラの状態。的外れな発言しかしないため、ビジネスについて話そうと切り替えてくださったものの、私の回答の中に”お客さん”が入っておらず、自分とお金のことしか考えてないことをご指摘いただきました。

この事に気付いてなかった自分がショックなのと、自分の考えが浅はかすぎることなど多くのことに気付き、自分が崩壊した感覚でした。午前中にセッションを受けたのですが、その日は何もできなかったです。

これをきっかけに、お金のことしか考えていない方々がトップの起業塾の幹部レベルになっていたこともあり、ダラダラ所属していたのですが、辞め、ビジネスもコーチングも真正面から向き合えるようになりました。感謝です。

少しずつ自分を変えていく日々

まずは自己適応から。と言われていたのですが、したい事がなかなか出てこなかったので、まず簡単な手放しからはじめました。まずは、家事代行にて掃除・洗濯畳み・料理を手放し。

料理は好きなんですが、子供たちは少食&偏食で、作っても食べてくれなくてイライラする事が嫌でした。
手放しました後は時間ができた嬉しさよりもストレスがなくなった事がめちゃくちゃ嬉しくて、この事をきっかけに仕事でも”絶対に手放せないだろう”と思っていたものを手放してみよう。と考えられるようになりました

後は、私は子供を育てたくない。と自分を認めました。
子供たちは大好きだし、何がなんでも守りたい存在ですが、成長を見届けるだけでよく、私は自分の好きなことをしたい。子育ては私よりも上手い人の任せよう。と。

そんなに頑張って子育てをしていたわけではないですが、心のどこかで他のママさんと比べてしまうこともあったので、認めることですごく楽になりました

チーム化を進める

スクールに入って一度自分が崩壊してから、より集客できるようになりました。「お客さんのため」をより考えられるようになったのだと思います。

もう1人ではできないと感じ、この時は事務関係をお願いしているだけでしたが他の業務も人に託して行きました。

まずは私の中で一番時間を割いていたのは説明会だったので、説明会が出来そうな、コミュ力高くて一緒に仕事したい生徒さん2人に声をかけ、3人体制にしました。80%はあった成約率が一気に30%になり、セールスの指導と共に、私ではなくても成約できるように改善し、チームだけで成約率70%まで回復しました。

同時に運営も任せるように育てていきました。
今まではフィーリングでしたが、コーチングのおかげで、相手がやりたいことと、できることを擦り合わせて、的確に仕事を任せられるようになったのは非常に大きかったです。

チーム化の話を他の人にした際にスコトーマを経験します。
2度も同じことを言うのが嫌いなので、このチーム化をしながらマニュアルをガチガチに作ってました。

私自身は当たり前の行動で、むしろ自分が作っているものがマニュアルという事にも気付いてなかったのですが、事業主の方に当たり前ではないと教えてもらい気付きました。

自分の得意なことは自分では気付けないと感じた経験でした。

子供は別会場でシッターさんに。合宿を実施

解散と雇用

親が熟年離婚をしました。
父が投資をして騙されたのか、700万円借金がある事を知り、母激怒。もう結婚生活を続けていく必要もなかったので、離婚に至りました。

父の夢は”資金を貯めて会社を作って家族を守る事”だったようです。私的には借金は悪だと思いませんでしたが、全て人任せの投資で自分で努力をしなかったのが悪いよね。と父には伝えました。
あの時の家族会議は大変だったようです。

そして雇用。
妹が離婚しシングルになのですが、やはり私と生活が違い過ぎて、私は妹というか、妹の息子を助けたいと、オンラインでできる妹の好きなwebデザイナーとして私の会社で働かないか。とずっと言い続けていました。妹は創業したての存続の保証なしの会社なので決断全然してくれませんでしたが、あることをきっかけに私の会社で働くことを決意してくれました。

そして私は、妹をwebデザイナーとして雇い、父は会計として雇い、外注として姉を雇いました。(これから母を雇う)

父がしたかった”資金を貯めて会社を作って家族を守る事”を私がしているので、私の会社を手伝うことが父の生きがいだそうです。

父は母のことは大事にしていることはわかっていたので、1人になったらボケるんじゃないかと思っていましたが、生きがいを提供できて本当によかったと思っています。

私を現状の外に連れて行ってくれた柔軟

李さんの「身体が固い人間なんていない」という言葉を聞いて、柔らかくなりたい!と李さんのお弟子さんであるスクール同期の林子さんに志願し柔軟を始めます。

高校くらいから肩こりもあり、社会人になってからは様々なマッサージを駆使し肩こり腰痛と闘っていました。身体も硬いし、こんな状態が治るわけはないと信じ続けている状態でした。

オファー後すぐにお試し2ヶ月左右開脚にチャレンジが始まりました。硬いと思っていたのはリリースの方法と身体の操作を知らなかったから。
がむしゃらにストレッチなんてしても意味がないこと、狙って筋肉をゆるめたら柔らかくなること、指を緩めるだけで全身が緩まること、他にも多くのことを学び、今までの自分の常識が崩れ落ちていきました

さらに驚くことに、肩こり腰痛がなくなってきたんです。
あれだけ整体カイロ針にマッサージに通い続けた私が、このオンラインの2週間に今までの悩みが解決する事があるのか!と、”本物とはどういうものか”という事も学ばせていただきました。

初めは言われたことをやっていくだけでしたが、徐々に知識が増え、目的に合わせたリリースができるようになったことも嬉しかったです。

左右開脚が終わると、3ヶ月でハヌマーンをするというゴールを作りました。林子さんの「できるよ!」という言葉を信じ、覚悟を決めるために沖縄の飛行機とカメラマンを予約。

できたシーンを想像してワクワクするけど、ザワザワして逃げ出したくもなる「現状の外」の感覚でした。何回も本当に3ヶ月でできるもんですか!?と聞き続けたことを覚えています。

ハヌマーンチャレンジ初回

逃げ出したくなったのは決断するまで。決断してからはハヌマーンを成功させるために日々トレーニングをするだけでした。オンラインセッション+毎日の柔軟を繰り返していましたが、1週間前の時点であともう少し。左脚のももが突っ張る。

1週間前

撮影日の数日前にずっと突っ張っていた左脚が緩みペタっと床に着くようになり、飛行機に乗っている間もずっとリリースし、本番ではどこの痛みも感じることなくポーズが取れました。
カメラマンには最後までヨガの先生だと思われていたようです。

ゴール達成した時はもちろん嬉しかったのですが、私の中では達成するものだったためそこまでの感激はなく、次は何をしようか♪ と、林子さんへの報告後の頭の中は次の挑戦へ行っていました。

自分の常識は常識ではないこと。
常識を覆す本物はこの世にいること。
現状の外への挑戦はこんなにも楽しいものだということ。

コーチングというものを身をもって体験した大きな挑戦でした。

全てが結合する感覚

スクール時代は自分のビジネスの向き合い方が変わったり、現状の外の感覚や手放す重要性を身を持って体験したり、妹を雇ったり、大きな変化をしてきましたが、真髄の

自分は"誰のために何をしている人なのか”

の部分が卒業後もしっくりきませんでした。
”ママのために稼ぎ方を教える人”は違うし
”洋裁屋さん”ではない
この人たちのためだけに今後も活動していくわけではないことはわかる。という感覚です。

そして卒業後にコーチングをしてもらい、やっと明確になります。

私は”自分が身近と感じる人を守り切っている”

多分私は幼少期の頃、うちは貧乏だ。と思った時から「私が家族を守る」と決めたのだと思います。家族を守るためにはお金が必要で、私がお金を稼ぐと決めた。実際、お金を稼いでも散財するわけではなく、家族に惜しみもなく当たり前のように貸す。

甥っ子を守るためには、妹が自宅で時間的にゆとりのある生活をしないといけないと思ったから、誘っても何回も振られるし、そもそも自分の負担が大きくなるだけなのに、何回も誘う。

後輩も友人も困っていたら最後までサポートする。

コーチ「身近な人守りきってるよね?」
私「気付かなかったです。めっちゃ守ってますねw」

自分が今までやってきたことと、これからやりたいと思っていること、全てバチッとつながって自分に対する自信(エフィカシー)爆上がりです。

これで自分の行動の軸が定まりました。

どハマりしてしまったフリーダイビング

100%foryouオーナーへいすけさんの影響ですが、与論島にスキンダイビングに行きました。与論島の海はめちゃくちゃ綺麗で、綺麗な魚もたくさんいたのですが、まず最初にやったのがジャックナイフ、潜り込みです。

一応事前学習をして臨んだんですが (本気w)、イメージ通りにはいかないもどかしさ。陸でのスポーツは何度か練習したらそこそこできるタイプですが、海ってこんなに身体いうこと聞いてくれないの!?という感じでした。

初めてにしてはいい線だったようですが、自分のイメージ通りにいかないのがめっちゃ悔しかったです。

facebookに
初スキンで5m達成
次回は目指せ10m
と投稿していました。

魚を見飽きたからフリーダイビングを始めたのかな。
と思っておりましたが、初回でスキンダイビングは卒業し、フリーダイビングの道に進んだようです。

最初はここから下にはいけない

初スキンから4ヶ月後、沖縄にて12.6m潜り、ライセンスを取得しました。

ダイビングは前日に出発時間が決定するので、シッターの手配が難しいんです。なので、この時は母をシッターとして連れて行きました。

大人2人と子供2人の飛行機代を払って
ライセンスも数万する
誰の役にも立たない
けど、めっちゃやりたい
これぞ真の趣味ですね。

フリーダイビングをしたことで、子どもを預けるスキルが洗練されました。

子供がいても自分の好きなことができる!と人に胸を張って伝えられるのはフリーダイビングを始めたおかげかもしれません。


なんでフリーダイビングにここまでハマったのかを分析すると
「身体操作がカオスな状況で攻略したい」
「知らない体の構造が知れる」
からだと思います。

「人ってこんなに息、体に入るの!?」
「人ってこんなに息止められるの!?」
が最初のスタートでした。

その後は耳抜きの種類だったり、横隔膜の柔らかさだったり・・・
マニアックになるのでやめますが、深く潜るためのに人間が編み出した技がすごいです。

1年弱で32m潜り、最後のライセンスを取得。

でもこのライセンスを取得した後がまた奥が深くなるんです。
まだ私は35mしか潜ってないですが、40m、50mと世界が違うようですし
競技の種類によっても身体操作が変わってきます。
フィンを取った素潜りでは潜りこみすら最初はできないし、悔しさしかありませんでした。

健康になる、究極の整いなど、もっとフリーダイビングの面白さは語れますが、趣旨と離れるのでここまでにしますw

ある程度わかると構造も気になる

一眼レフも始めてみました。この思いつきで新たに”構造を知りたい”という自分の特性に気付くことになります。

子供や景色を綺麗に撮りたい。という理由にして始めましたが、本音は子供を綺麗に撮りたいとは思ってなく、一眼レフを操作してみたい。でした。

こういう時はとことん勉強できるので、早々に操作を一通りできるようになったら、カメラの仕組みが気になり、レンズから調べたくなったんです。昔焦点勉強したわー!!と懐かしく思ったり、撮影素子考えた人天才じゃない!?とか考えながら、本を読みまくりました。めちゃくちゃ楽しかったです。

簡単な構造を理解できる組み立て式のカメラを見つけ遊んでみたり、そもそもどんな写真が綺麗と思われるのかも気になって、構図も勉強しました。

ここまで勉強したのに、外出時には「重いからカメラ持って行きたくない」とカメラを持ち運ぶことは稀という、撮影自体にそこまでの興味がないカメラ好きになりました。

この行動をきっかけに、服作りも”服がどのように組み立てられるのか”を楽しんでいることにも気付けました。
実際に「構造を理解する」という動画を、教材ごとに作っていて、構造を解説しています。
だから既に構造がわかっているものを2度作るのが嫌いだったんだ!と理解できてスッキリです。

子連れ旅をする中でズレを感じる

コロナ禍でも合宿に参加したり、とにかく国内外出かけました。

子供たちと一緒に行きたいから一緒に旅する。自分の時間を作るためにあらゆる手段を使う。が私の中ではスタンダードだったのですが、世の中ではそうではない事を徐々に感じていきます。

そもそも日常においても
預けたいけど、預け先を知らない
預けたいけど、預けることが怖い
という方が多いと知った時は驚きました。

ここはKIDSLINEさん達頑張れよ。という気持ちで日常に関して私の心は動かなかったのですが、旅にフォーカスすると気になり始めました。

子連れ旅は子供メイン。けど、親は自分の時間が欲しいと思っている。
ママ同士で合宿したいけど、できる場所がない。
など、旅先での預け先に苦労している方が多いと知ります。

旅先で預け先に苦労している人を助けるようなことしたいんだよね〜と呟いていると、バンコクはママに優しい国であることを教えてもらい、アテンドしてもらうことに。

そこで泊まったケンピンスキーホテルに感銘を受けました。
・広い託児所、しかも可愛い
・9時から17時まで預けられて宿泊者無料

これをきっかけに、子供が預けやすい宿を作る。と決めたのでした。

ただ旅先で子供を預けてるだけなのに、これからママになる人たちに「ゆっきーみたいに子育てしたい、憧れる」と言われます。

海外に行っても日本と同じように現地のシッターさんに預けているだけなのに、周りの人に「すごいね」「怖く無い?」「子供たち大丈夫なの?」と言われます。

日常はもちろん、どこに行っても自分の時間を作りながら楽しめる人が増え、これからママになりたいという人も増えていくと素敵だな。と思っています。


波瀾万丈の宿泊施設建設スタート

宿を作る!と決めたものの、建設のことは何も知りません。
なので、建築デザイナーの方に手伝って欲しいとお願いし、プロジェクトスタートです。

「海がきれいな場所がいい」とリクエストしたところ、長崎県壱岐島にて目の前に海が広がる素敵な土地を紹介していただきました。海に面する土地はほぼ国が所有しており、今はほぼ手に入らないそうです。海を眺めながら過ごせる宿が作れる!と、最初は順調でした。

しかし、目の前海の土地がいきなり土砂災害警戒区域に指定されたり、名義変更できない状況と調査を進めるうちにわかり、土地の変更を余儀なくされます。この問題発覚後すぐに、目の前海ではないですが素敵な土地を紹介いただき解決しました。

次は資金調達の難航です。本拠地と事業場所が違う・実績がないのに担保がないことで、融資がうまくいきません。

おかげで銀行関係に何回もプレゼンしにいき、初めは読めなかった宿泊施設の事業計画の数字も、今ではスムーズに答えられるほどレベルアップしました。

公庫から融資OKもらえたのに補助金申請に失敗して融資が白紙になったり、今現在進行形で全然うまく行っていませんが、この施設建設をきっかけに、施設を作ろうと思わなければ出会えなかった多くの方と繋いでいただき、ご縁が広がっております。

RPGの感覚で試練を乗り越えながらレベルアップを楽しんでいます。

壱岐のモン・サン・ミシェルにて

フィンランドで感動の出会い

タイガーモブが主催の「フィンランド Edu Camp」に参加し、フィンランドの教育を学んできました。衝撃を受けたのはメディア特化型の高校訪問。日本では絶対に扱わせないようなプロの高級機材を高校生が扱っていたんです。それも先生はほぼ介入せずに、先輩が後輩に指導し学んでいくとのこと。

この高校の衝撃を受けたあと、フィンランドの図書館OODIを訪問しました。OODIは3階は図書館で2階はレーザープリンター、実況中継ルーム、レコーディングルームなどプロが使うような本格的な高級機材を市民なら無料で使える設備が詰まっていたのです。

この施設を見たときに、日本でもこんなものがあれば子供も大人も挑戦しやすくなる!と、託児付きでOODIのような施設を作りたい。と思うようになります。

それから日本に帰ってきてイメージをブラッシュアップしながら、まず大型の商業施設に作りたい。と思い、友人に繋がりがないか聞いてみると、とんとん拍子で関係者に繋いでいただき、プレゼンさせていただきました。さらに百貨店の方に繋いでいただく機会もあり、これもご縁がかなり広がりました。

大型商業施設も百貨店もそもそも店舗の空きが現在ないため、アイディアはめちゃくちゃいいけど今は無理。とのことで保留。
何かしら今後に繋がれば楽しそうだな。と思っております。


ここまで読んでいただきありがとうございました。
3万文字を書くことで今まで思い出せなかったものが思い出せ、自分のwant toや価値観などがより明確になりました。

ですが、過去よりもコーチングに出会った以降の自分の方が思い出せず、この記事を書く際、コーチに聞いて思い出したのです。10年前くらいの話を聞いている感覚でした。
改めて人生を加速させるコーチングの凄さも感じました。

過去もこれからも私の人生を伴奏してくださる方々に感謝し、全力で突き進んでいきます。

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