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捌く

先日、イカと大根の煮たのをつくろうとして、買い物して家に帰ってきたら、肝心のイカを買うのを忘れていた。

また家を出て、一番近いスーパーにイカを買いに行った。

そのスーパーには、遅めの時間だったからか、ちょうど北海道産のスルメイカが1杯だけ残っていた。それがすぐ目について、深く考えずに手にとり、レジへ向かった。

帰宅してみて、イカを手にし、よく考えてみれば、そもそもイカまるごと1杯を捌いたことなんてなかったと少し慌てた。

急におたおたしたものの、今はネットの時代である。検索すれば、イカの捌き方だって調べられる。落ち着いて、捌き方をググり、いざ、取りかかった。

さあ、捌くぞとイカに見入ったその瞬間、イカの出っ張った目玉と思わず目が合った。

ビクッとして、包丁を持つ手が止まる。

いや、もう既にそのイカさんは息をひきとっているのだから、目が合ってはいないはずなのだけれど、目が開いたままの状態だから、ジロリと見られているようで、ビビってしまった。

ふるふると首を振り、勇気を出して手を動かす。イカさんのボディーを掴み、手を中に突っ込んで内臓と足の部分を頭から切り離す。

はらわたなどがにゅるにゅるにゅるっと出てきて、生々しさに心の中でひぃぃと叫びながらも、黙々と包丁を持つ手を動かす。

途中、また目が合ったり、彼(彼女)の部位を解体しないといけないときには、ごめんね、ありがとうを繰り返しながらなんとかどうにか調理できる状態まで至ることができた。

ふぅ。

料理に慣れた人には、イカを捌くのはそんなに難しいことではないかもしれない。
最近、料理の魅力に気づき、料理が楽しくなってきて、レパートリーを徐々に増やそうとしているレベルのわたしには、やや試練だった。

だが、思う。

自分が口にする料理、その料理を構成する食材というのは、野菜にしても、魚や牛、豚などでも、すべて生きていた命。

料理人というのは、ひとつひとつの命に向き合う瞬間が多々訪れるのではないか。

それは、ただ調理されたものを食べるだけでは感じづらい。

明らかにその命は生きていたんだとわかるような状態から、人が口にする、原形をとどめない調理された状態になるまでの全行程に関わった者が、命をいただいている実感や、その命に対する感謝を抱きやすくなるのではと思う。

そういう意味でも料理は深いな。

イカを捌いてから、他の魚も捌いてみたくなった。命をいただくからこそ、自らその命と向き合いたくなった。

そんなことを思っていた矢先、ちょうど昨日、釣りに行った友人が鯵を5尾ほど差し入れてくれた。

もちろん、鯵を捌くのも初めてだ。
イカと同様、捌き方をググり、捌き始める。
イカと同様、心の中でひいぃ、ごめんね、ありがとうと唱えながらなんとかやりきった。

鯵は、なめろうとアジフライになっていった。うまい。








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