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12. 飼いならすこと、炎上すること

11月のスケーターと市を交えた話し合いを経てから雪が降り始め、スケーターの姿はなくなり、私たちは日々の業務や除雪作業に追われ時間が過ぎていった。その間、アーケードのある路上の一角でスケートボードに興じる若者を夜間に見かけることもあり、「どうか音が住宅街まで響いていませんように」と祈りながら、その脇を通り過ぎるというということが何度かあった。

市役所には引き続き苦情が寄せられていたようで、年が明けてすぐに市からの求めで今後について打合せの場を設けることになった。その結果については、改めてまとめたいが、打合せの場で「今年は雪解けが早いから」と市の方がつぶやいた予言が当たり、2月の頭には雪が解ける日があり、再びスケーターたちがやってきた。また苦情の電話がつづくのではと明らかに不安な表情を浮かべるスタッフを見ながら、当面の措置として10月に決めた内容をまとめたサインを屋外に掲示し、来館するスケーターに声掛けをしながらやり過ごしていった。
 
私自身、昨年5月頃からはじまったスケートボードの一件を、この堂々巡りとも見える状況からどうやって進展させていくのか、考えあぐねている。文化創造館だけで解決できる問題ではないことを認識しながら、周囲の施設に水を向けても反応は鈍く、エリアのマネジメントをさまざまな関係者と考え、進めるための糸口が見いだせずにいる。
先日、管轄の交番による数年ぶりの地域の定期調査で、若い警察官が文化創造館に来た折に、「こちらの館、スケートボードの件で揉めているようですが、何かあったらご相談くださいね」とさわやかに声をかけられ、「そういうことじゃないんです」と否定しようと思ったが、説明しても理解されなさそうだなと早々に諦め、「はぁ」と生返事を返してその場を収めてしまった。
 
こうやってnoteに思考の軌跡をつづり、色んな方と話をする中で、ようやくボンヤリと自覚しだしたのは、私自身はスケートボードの問題を解決するということよりも、公共の施設として、自分たちが立脚する街やそこで営まれる暮らしへの向き合い方を問いかけ、議論し、考えていくことに関心が向いているということ。そしてそうやって関心が向いているイシューについて、解決する、ということがこの先ありえるとは自信をもって言えないし、むしろ無いのだろうと薄々感じている。さらには、そういう方向に自身の関心が向いていることについて、スケートパークが欲しいと思っている人などからは、「は?」と否定的な声色をもって言われるであろうことも想像はできている。「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起こっているんだ」という強い批難もあるだろう。私の姿勢が、現場から逃げているのかどうか、それも今はわからない。しかし、例えばスケートパークを整備するという活動の先陣を切ること、それは自分の仕事や興味関心ではないような気がしている。ただし、そうしたいというアクションを取る人が出てくれば、サポートするのだろうと思っているし、実際にそういう行動をとった時期もあった。
 
モヤモヤと思考を巡らせながら日々過ごしていた中で、改めて自分の思考を揺さぶる2つの出来事があった。
1つ目は、文化創造館が起点となってスケーターなどと話し合いの場を開いたことについて、「(あえて批判的に捉えてみると)それは飼いならしではないか」という言葉を投げかけられたこと。その言葉は、自分がいかにナイーブだったかを顧みる契機となった。
もう1つは、とあるトークイベントにおいて、「炎上するということ」への向き合い方に関する応答を聞いていた時のこと。改めて「飼いならす」という言葉を思い出しながら、炎上を恐れ、スケートボードに理解のある人たちだけと繰り広げたこれまでの話し合いの場は、そもそも私が関心を向けているはずの「公共の施設として、自分たちが立脚する街やそこで営まれる暮らしへの向き合い方を問いかけ、議論し、考えていくこと」に向けて、極めて多様性に欠ける場だったことに(ようやく!)気づいたことである。

この先において、純粋に意見が異なる多様な人が集まり、議論するという場が設けられないか。そんなことを考えつつ、3月19日(日)に秋田市文化創造館で開催する「大カタルバー」の中で、「スケボーと秋田のまち」をテーマに、テーブルオーナー(店主)を務める予定です。

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