残酷な芸術神が支配する…?
例のドキュメンタリー映画が7月末から英国公開された。
今年初めのサンダンス映画祭への出品以降、この作品はカナダやセドナ、そして本国スウェーデンの映画祭に出品されたらしいが特に大きな話題にはならなかった。
が、英国プレスの評価はちょっと不自然とも思えるほど高いものだった。
短いレビューをざっと読んだが、こちらもサンダンス同様、声をそろえて
ヴィスコンティ批判の大合唱で「Me too」という言葉まで飛び出した。
ここで非常に大きな疑問を感じるのだが、ヴィスコンティはアンドレセンに対してそこまで激しく非難されるような、性的搾取とまで言われるような行為をしたのだろうか?
確かにオーディションでセーターを脱ぐよう指示されるシーンはある。
しかしベニスには水着のシーンが多く、ボディチェックは特に不自然なことではない(間違いなく役得ではある)。
それに日本のアイドルオーディションにしても水着審査は普通の事であり、
「性的搾取だ!酷い!」と目くじらを立てて大騒ぎするほどのことだろうか。
もうひとつ、ゲイクラブに連れて行かれたという話。
これは監督にすれば「役作り」のためであった。
アンドレセンはインタビューでくどいほどくり返し「Meety Dish(旨そうな肉料理)」のような目で見られ、とても不快だったというが、監督はその「獲物を狙う目」をよく見て、「君がアッシェンバッハをあの目で見るんだよ」と指導したらしい。
しかしノンケの15歳にとってそれは到底理解できず、ただただ不快だったことは想像に難くなく、本人がセクハラと感じればそうなのだろう。
だが監督にそのような真意があったということは、ドキュメンタリーではおそらく完全無視されるだろうからここに記載しておく。
以下、アンドレセンの監督に対する苦情をいくつか検証してみよう。
「ギャラが安い、モノ扱いされた証拠だ」については以前にも書いた。
アンドレセンに支払われた5000ドルは、現在のレートでは約650万円である。演技経験も皆無に等しい素人同然の15歳に650万円が安いだろうか。ギャラで購入したグレッチのギター(高校生に買える値段ではない)を弾いてご満悦の写真も見た気がしますが。
「使い捨てにされた」
監督には監督の次なる作品構想がある。
そこに彼の個性が必要なければ使われなくても当たり前。
実際「ルートヴィヒ」「家族の肖像」を見ていれば、そこは理解できるのではないだろうか。
「売春強要」
これはアンドレセンの発言ではなくELLE JAPONが書いた名誉棄損レベルの出鱈目。
アンドレセンがパリで週500フランの契約で一年間富豪の男性に囲われていたのは事実。
本人がインタビューで答えている。
しかしそれは1976年の話で、監督は同年3月に他界している。
アンドレセンは監督の葬式にも参列していない。
「使い捨てにし」5年も没交渉の相手にどうやって売春強要出来るというのか。そもそもイタリアきっての公爵家であるヴィスコンティがなぜそのような「ヤクザの凌ぎ」をする必要があるのか。
あのような五流ゴシップライターの書いた低俗な捏造記事を真に受けて監督を悪し様に罵る単純な人々には呆れ果てたが、もともと大したファンでもない連中が面白おかしく騒ぎ立てていたのだと思う(サクラも少なからずいたのではないか)。
そこで私は自分に出来ることをしていこうと決心した。
私は1971年当時の「スクリーン」誌をはじめとする映画雑誌やヴィスコンティ関連の書籍を多数保有している。
さらにアンドレセン氏の2002年以降の海外メディアでのインタビュー全てに目を通している。
それらの資料によって事実と捏造を容易に突き合わせ、反証することが可能である。
アンドレセン氏側にとっては都合の悪い事実であろうが、それでも私はデマをひとつひとつ潰してゆき、さらに私自身の思いを綴ってゆくことであまりよく知らず監督を非難している向きに正確な事実を伝えてゆきたい。
その一心だけで、もう閉鎖してしまおうと思っていたこのブログを続行している。
私は事実の積み上げによって、今後も冷静に反証を続けてゆく。
そしてアンドレセン氏のファン諸氏にも、決して盲目的にならず冷静に事実を掌握してほしいと心から願う。
ここから先は蛇足かも知れないが、私が個人的に感じていることをすこし書いてみる。
あのイギリスプレスの酷い論調は、もちろん昨今流行りのキャンセルカルチャー様いらっしゃい、であると同時にイタリア映画の真の芸術性に対する嫉妬ではないか。イギリスにもヒッチコックやデヴィッド・リーンのような巨匠はいるが、ヴィスコンティのように真の貴族ならではの、バロック絵画のような深い陰影に富んだ絢爛たる映像美の中に退廃の美学を注ぎ込み、至高の映画芸術を生み出す監督はいない。イギリス人はやっかみ半分でこの機会にここぞとばかりに叩き、価値を下げてやろうと思ったのではないか。もちろんこれは私の想像に過ぎない。が、イギリス人は自国民ではないマイケル・ジャクソンの事も異常なまでに叩いていた。
その理由も今回と同じく、まったく事実無根の「未成年への性的虐待」であった。
蛇足ついでにもうひとつ妄想を書いてみよう。
世の中には、エナジー・ヴァンパイヤといって他者から霊的エネルギーを吸い取る能力を持つ人間が存在する。本人は無意識であり、呼吸をするように自然に目の前の相手からエネルギーを奪ってしまう。
見るからにエネルギッシュな監督は、このタイプだったのではないかと想像する。
監督はアンドレセンから「生命エネルギー」を吸い上げてしまったのではないか。
性的虐待などあろうはずもない。ギャラも十分に支払われた。普通に人間的な扱いもしただろうしゲイクラブに連れて行った以外に一般的なハラスメントとされることは何もなかっただろう。
が、彼の一生分の生命エネルギー、霊的なコアを監督は一瞬にしてしゅっと抜き取り、作品に取り込んでしまったのではないか。
だからこそあの作品は永遠に色あせぬ輝きを持ち、そしてアンドレセンはいつまでも恨みから脱却できない。
残酷な芸術神であるヴィスコンティ。その作品のために少年は何も知らず、生贄として捧げられたのかもしれない。現在のアンドレセンの、60代後半とは思えない異様な老け方を見ると、これも案外ただの妄想ではないような気がしている。シャム双生児の片割れである妹に養分を吸い尽くされ、自分は髪の毛もなく痩せて干からび、妹は豊かな金髪で人形のように美しい、という萩尾望都氏の名作「半神」の主人公のように、アンドレセンとタジオは今も霊線で繋がり養分を吸われ続けているのだとしたら、それは映画よりも奇なる恐怖のオカルト的搾取。「性的搾取ガー!!」とわめくより、むしろこちらのほうが私にははるかにリアリティがある。現実だけを見ればアンドレセンの被害妄想に思えることも、こう考えれば私には腑に落ちる。
妄想はこの辺にして話を戻そう。
アンドレセンにとって、ヴィスコンティ監督と映画「ベニスに死す」は人生を大きく狂わせ生涯をかけて戦わねばならぬ敵であり、人生の深い傷跡であったのだろうか?
本当にあの映画によって人生のすべてを奪われたと思っているのだろうか?
元々不幸な生い立ちによってアイデンティティが不安定なところへ、望まぬペルソナを与えられ余計に自分が何者かわからなくなってしまったことは確かに気の毒である。
しかしそれでもなお、人生とは自己の責任において創り上げてゆくものであり、他者が責めを負うべきものではないはずだ。
撮影当時未成年でそこが理解できなかったとはいえ、若かったのだから尚更その後の人生で軌道修正出来たのではないだろうか。
いくら他人を責めようと、立ち直ることは本人にしか出来ない。
そしていつまでも相手に対し負の念を抱き続けることは、結果的に自分の命を削ることになる。
今この人は何をしようとしているのか。失われた人生を取り戻したいと願っているのか。
もしも過去を癒すこと、過去を取り戻すことを望むとしたら、たったひとつだけ方法がある。
彼が人生かけて否定しているタジオを「逃れられない呪縛」ではなく「永遠の自分の一部」として認め、受け入れることだ。
そうすれば、タジオが世界中の人々から欲しいままに得ている愛も感謝もすべて本人のもとへ流れ込んでいくだろう。
いつの日かその輝ける統合が起きる奇跡を願っているが、それがおそらく叶わないであろうこともまた承知している。