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DAVID BOWIE 映画「ZIGGY STARDUST」

1973年7月3日。

真夏のロンドン。
ロンドンの夏は日本のように暑くはないが、ハマースミス・オデオン前を埋めつくし、開場を今や遅しと待ち構える観客たちの熱気は、夕日の照り返しとも相まって2021年の今現在でも往時と寸分変わらぬ熱量で、ありありと伝わってくるようだ。

気さくな笑顔でファンに対応しながら誇らしげに群衆の間を縫って歩いてゆく愛妻アンジー。

そして群集の姿に被せるように「アメリカ、日本で大成功を収め、ロンドンに凱旋した…デイヴィッド・ボウイー!!」という派手派手しいアナウンス。

一転して、楽屋で入念なアイメークを施されるボウイの姿。
メイクの最中に(悪名高き?)マネージャー、トニー・デフリーズからのテレックスが届く。
ものすごい長文だが内容は全く意味不明。
「ビジネスなのに暗号とは…」と真顔で呟くボウイが可笑しい。

そしてアンジーが楽屋に入ってくる。
夫をリラックスさせようとしてか、アニメ声でぺちゃくちゃと矢継ぎ早によく喋る。

そしていよいよステージの幕が開く。
この映像は記録用として撮られたものであり、はじめから映画というコンセプトではなかったようだ。

そのために、あまり映像的、演出的に作りこまれた感じではなく全体の流れはけっこう淡々としている。
そしてそのシンプルな構成が余計に当時のボウイの存在感を際立たせているように思う。

最初の衣装は、山本寛斎デザインの濃いブルーを基調とし、胴体部分に逆V字を描いた「TOKYO POP」に似たスーツ。

途中でこの衣装の「引き抜き」が行なわれ、中からやはり寛斎の白い和風ギリシャ神話?みたいな白地に鶴の模様の描かれた不思議な衣装が登場(この衣装は2着とも「イズ」で展示してあったが、なぜか最後の「ショウ・モーメント」スペースの半透明のスクリーンの裏側に隠れるようにして飾ってあった。もっとよく見たかったのにどうしてあんな冴えない展示方法だったのだろう?) 。

およそ2時間のコンサートの中で、お色直しは引き抜きを合わせてなんと6回。最新のファッションショーも兼ねていたのか。
衣装替えの間はミック・ロンソンによるソロギタータイム。

そしてこの6着の衣装のうち3着目のストライプスーツ(大学時代の友人があの衣装を「おにぎりせんべい」に例えて以来ずっと「おにぎりせんべい」にしか見えない(^_^;)以外すべて回顧展で見られたという事が非常に感慨深い。 

コンサートは「ジギー・スターダスト」そして最新アルバム「アラディン・セイン」からの楽曲を中心に「スペイス・オディティ」や「ハンキー・ドリー」「世界を売った男」からの楽曲で構成される。

ふと、あれこの映画、タイトルは「ジギースターダスト」だけど「アラディン・セイン」のツアーよな?と思い確認してみると「アラディン・セイン」が発売されたのはツアー終盤、そして初来日公演真っ只中の1973年4月13日。なんとツアーをしながら新しいアルバムの製作も同時進行でやっていたらしい。今思えば、RCA時代は馬車馬のように働かされていたようだ。

余談だけどこの人「ヒーローズ」のツアー中も一年くらいケニアに住んでたらしいしなんかいろいろすごい。

そして長いツアーの途中から眉毛がなくなり、髪もうっかり美容師が切りすぎたのを何とかカッコよく見せるため真っ赤の染め上げ、和風衣装が導入され、ジギーから新キャラであるアラディン・セインへと変貌を遂げていったということだ。

一曲目は「君の意思のままに」
つかみとしては「レベル・レベル」かこの曲か、というくらい一気に観客の心を鷲掴みにする楽曲だ。

そして「月世界の白昼夢」
自前の振り付けで踊っている客席の女の子が可愛らしい。

今回の上映にあたって、訳詩はすべて新訳に直されたという。
新訳なので若い人が担当したのかな?と思ったらそうでもないようでけっこうオッサンくさい訳だw
そしてかなり意訳も多く、最後の歌詞がなぜか「セックスしろ」。
んー、これなら岩谷宏氏のぶッ飛びの意訳のほうがいいのでは。
ついでに言うなら「アラディン・セイン」の楽曲はやはりリリース当時の片岡義男訳が好きだ。
「アラディン・セイン」というアルバムはこの人には珍しくロコツなセックスを歌った歌が多い。
それでなのか、衣装も含めステージ上でのポーズがきわめて卑猥である。
序盤のブルーのスーツを引き抜きで脱ぎ去って現れる白い衣装。
ボトムがマイクロミニのフレアースカート状になっていて筋肉質の太股がむき出し。さらに中はTバックのぱんつ。

両脚を大きく左右に開脚し、そして歌っている間じゅう腰を左右に、ときに前後に振り続け、私がもしこのショーをかぶりつきで見ていたなら、もう「そこ」以外目に入らんだろうw
しかも客席に背中を向けて衣装のスカート部分をぺろっとめくり、Tバックの尻を見せつけたりするww
チャイナガールのPVといい、ほんとに尻を見せるの好きだなこの人。

とはいえ観客の中心はローティーンの女の子たち。
映像に映っていた少女たちは皆14、5歳ではないだろうか。

こんな卑猥な人にどうして中学生の少女たちが夢中になるのか。
衣装はいつも当局の検閲を受けていたというのに…

それはきっとこの人の華奢すぎる体格のせいだろう。
「イズ」で見たマネキンは人間離れしていた。骨格が通常の成人男性よりひとまわり小さい。

手足はすらりと長いので身長はあるが、胴体部分は12、3歳の子供のように華奢なのだ。肩幅なんて、絶対に私よりも小さい(80年代以降のコンサートでは、たっぷりしたスーツ姿が多かったのでわからなかった)。

ヤッコさんが「ひらひらっと宇宙から舞い降りてきたような…」と言っていたようにどんなにエロくても生身の男の現実感はまるでなかったのだろう。 

コンサートの終盤に歌われる「My Death」。

公開当時に何度も繰り返し見たはずなのに、この曲のことは全く記憶になかった。青白い顔をして、切々と歌われる長尺の楽曲はジャック・ブレルのカヴァーである。

きっと当時の私は「地味なのにえらい長い曲だなぁ」ぐらいに思ってそのまま忘れていたのだろう。
この人を失った今にしてみると、全く違った感慨がある。
そしてその思いに引きずられぬよう、無意識が「早く終わってくれ」と聴き入ることを拒絶した。

独特の雰囲気を持ったこの暗い楽曲はコンサート全体の流れを途切れさせてしまうほど異色だが、そのリスクを取ってもこの選曲をしたということには、きっと深いメッセージが込められていたのだろう。
そう、「死」ということについて…

最後の楽曲は「ロックンロールの自殺者」。 その前に、このショーの中で最大のハイライトシーンがある。

あの伝説となった「もう2度とステージには立たない」宣言である。

実際には非常に短く、あっさりとしたものだ。
「バンドとしてはこれで最後だかんね☆」みたいな軽い感じで細かい説明もなく、発言が終わるか終わらないかのうちに大勢のファンがキャーと悲鳴を上げるが、これを聞いた瞬間にその真意を掴みきれたファンは果たしてどれほどいたのだろうか。
もしも私がこの場にいたら、まったく意味が解らず言葉もなくただただ呆然とするだけだろう。

そうして歌われる「ロックンロールの自殺者」は本当にこれで最後、今生のわかれと言わんばかりの渾身の絶唱だった。

この「2度とステージに立たない宣言」がその翌年にあっさりと翻されたのは周知の事実。とはいえ、この瞬間のこの人の気持ちには、決して嘘偽りはなかったのではないか。全身全霊、音楽に捧げ、自らの生命を削り取るようにして音楽に殉じたロックンロールスウサイド、
それは彼自身の姿。

だからこそジギーを封印する必要があった。

火星からやってきたジギースターダストは、次なるペルソナ、アメリカの象徴であり、セックスと破壊の化身、またインドのシヴァ神のようでもあるアラディン・セインとともに永遠に葬り去られた。

そうすることによってデヴィッド・ボウイはさらにあらたなるペルソナ、あらたなる生を獲得してゆく。
永遠の新陳代謝をくり返すように。