「家族の肖像」はヘルムートへのラブレター?【ネタバレあり】
ルキノ・ヴィスコンティ監督後期の珠玉作。
ローマの豪邸で「Conversation Piece」と総称される18世紀の家族画に囲まれ独り静かに暮らす老教授のもとに、ある日突然騒々しい闖入者たちがやって来る。
富豪のビアンカ・ブルモンティ夫人は愛人コンラッドのために教授が買い損ねた家族画と引き換えに、豪邸の一部屋を間借りしたいと申し出る。
不承不承、承諾した教授だがこの一家の身勝手さと行儀の悪さ、傍若無人さは目に余るもので、断りもなく部屋の改造を始めて水漏れを起こしたり、政治活動をしているコンラッドに敵対する過激派が家に侵入し彼を負傷させたり、教授の静かな生活はあっという間に攪乱された。
にもかかわらず、教授は彼らを嫌悪して追い出すでもなく、人間としての弱さ、卑怯さ、愚かしさ、残酷さを隠すこともなく、ドロドロとした人間臭さを露わにする彼らに翻弄されながら、次第に愛情すら感じるようになる。
彼らの愚かしさは、また教授自身のものでもあるという共感からだ。
私はヴィスコンティの織り成す数多くの名作群の中で、この「家族の肖像」が一番好きだ。
完全な室内劇で、舞台のような趣がある。
初めてこの映画を見たのは高3の時で、バロック建築の豪邸の素晴らしい内装、シルヴァーナ・マンガーノの美貌を際立たせるフェンディの衣装、
ヘルムート・バーガーの妖艶な美しさ、エルミニアのつくる美味しそうなお料理…何もかもにうっとりと夢中になり、とりわけバート・ランカスター演じる孤独を好む教授の内面に深く共感した。
人間臭い感情からは距離を置いていたいのに、そこに深い愛情も感じてしまう。だからこそ悲しくて苦しい。
この静謐な内的世界の描写は、「ベニスに死す」や「ルートヴィヒ」「地獄に堕ちた勇者ども」で見せた壮麗な破滅の美学とはまた違い、もっと身近であり、人間的な共感を誘う、監督個人の内面の吐露のようにも感じた。
そして最近になってDVDを購入して改めて見直し、これは監督のヘルムートに対する最後のラブレターではないかと感じた。
物語の終盤近く、ビアンカとの激しい口論の末、傷ついたコンラッドは部屋を出て行く。
その後ビアンカが切々と訴えたコンラッドへの想いは、監督の心そのものかも知れない。
コンラッドへの愛は確かだが、決して愛人以上の関係ではない。
金銭やものを与えられる関係を彼は「見下し」と捉え傷ついたかも知れないが、間違っていてもそれは自分なりの愛情表現だった…
左派活動に挫折してヒモのような暮らしをしていても、地頭は良く教養もあり、絵画や音楽への造詣も深いコンラッドは、とても魅力的な人物として描かれている。約束は平気で破り、誰とでも寝て男にも女にもお金にもだらしないコンラッドはおそらくヘルムートそのもの。それでも、そんな彼を監督は誰よりも愛していた。
監督はヘルムート本人に伝えたい思いのたけをビアンカの台詞としてこの作品に込めたのではないか。ちょっと一時期の小室哲哉と華原朋美の関係を思わせる。
物語のラスト、屋敷の2階から大きな爆発音が響き、驚いた教授が駆け付けるとそこには頭から血を流したコンラッドが倒れていた。自殺なのか事故なのか…彼は助からなかった。
その後、病の床に臥せった教授の元に、落ち着きを取り戻したビアンカが別れの挨拶にやってくる。
ビアンカはコンラッドが自殺したと思っており、その死によって自分を見下した私たちに永遠の罰を与えようとしたのだろうが、それでも私たちはいつか彼を忘れる。人間とはそのように残酷なものであると告げる。
ビアンカに同行した娘リエッタは「彼は自殺ではなく過激派に殺された」と主張するが彼の死の直前に教授が遺書とも言える置手紙を発見しており、真相は分からない。
その手紙の結びには「あなたの息子 コンラッド」と記されていた。
自分の人格を認めてくれた教授のことを、コンラッドは父と思い慕っていた。
ビアンカ達の去ったあと、コンラッドが住んでいた2階の部屋から彼の足音が聞こえる。
その足音を聞きながら、教授はそっと静かに目を閉じる。
私はきっとこれからも何度も繰り返しこの映画を観るだろう。
人間なんてみな愚かだし厄介だしエゴイストで汚い。
そして自分も間違いなくそんな人間の一人である。
だからこそ、互いを理解し赦し合うことも可能なのだ。
私はこの作品に、一縷の希望の光を見る。