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日月神示 ~食物(おしもの)の集団~

日月神示。
その中に「食物(おしもの)の集団」という言葉が出てくる。

「食物」「集団」という言葉は、それぞれたくさん出てくるのだが、「食物の集団」となると、その言葉は下記の1ヶ所だけだ。

まずは原文を紹介する。

雨の巻第十三帖

世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、五十九柱いくらでもあるのざぞ、かへミタマあると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。心から勇む仕事よき事ぞ、此の方の好く事ざぞ。木の葉落ちて冬となれば淋しかろがな、紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが紅葉の山も落ちたであろがな、他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち付いて聞き落しのない様になされよ、悔しさ目に見へておろがな、どぶつぼに我と落ち込む人民許り出て来て、神の国 臭くて足の踏場もないぞ、なれども見て御座れ、三千世界一度にひらいて世界一列一平一つのてん詞(四)で治めるぞ。地の世界に大将なくなって五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、あんまりな事ぢゃなあ。是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ、誠とはコトざぞ 口でないぞ、筆でないぞ コトざぞ、コト気付けと申してあろがな。コト、コト、コト、ざぞ。始めウタあったぞ、終もウタぞ、今も昔もウタざぞ、人民も動物もウタ唄ふのざぞ、終の御用の始はウタぞ、ウタの集団(つどひ)とせよ。此の神示ウタとして知らす集団とせよ、ウタの集団 始ざぞ、表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、道開く表の終の御用ぞ、江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな、カイの御用も忘れてならんのざぞ。食物(おしもの)の集団も作らなならんぞ、カイの御用の事ぞ、此の集団も表に出してよいのざぞ、時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団ざぞ。不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してあるは神に都合ある事ぞ。世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下されよ、二人でしてくれと申してあろがな、判りたか。十二月十八日、ひつくのかみ神示。

「食物の集団」という言葉は、「カイの御用」という言葉に囲まれている。

この「カイの御用」については、過日noteした。

日月神示は難解だし、意味はいろいろにとれるんだろうけど、「カイの御用」とは何か? そもそも、「カイ」って何か。

江戸は「穢土」、
尾張は「終わり」、
美濃・尾張は「身の終わり」

というような言霊であるとしたなら、

カイ(甲斐?)は「壊」

なのかもしれぬ。
なので、「カイの御用」とは、

何かを破壊するような神の仕組み


のことなのだろうか?

また、カイは「改」にも通ずる。
”あらためる”ことになるのやも知れぬ。

いずれにせよ・・・

もしそうなったら、食べ物に困るのは必定。なので今のうちに、「食べ物」、あるいは「食料を生産する人の集まり」をきちんとしておけ、ということかもしれない。

場合によっては、「食料を生産する人と、それを受け取る人のつながり」であってもよいと思う。

今の僕ならば、米と水は提供してあげられる。別に無償で構わない。

もし、本当に、何かを破壊するような神の仕組みが起きたなら、世界は流通経済もあったものではない。

その局面で可能な食料生産(農業)のありかたとは?

・・言わずもがな、である。

ところで・・・

同じような香りがするnoteさんを見つけました。






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