「花束みたいな恋をした」を見て(また作文)(また地味にネタバレ)

先々週、映画館で天外者を観たときに「花束みたいな恋をした」が予告編として流れてたのを見て「よくある恋愛モノの映画ねえ。膵臓と同じじゃね?」などと適当に流していた。

ところがどっこいこれをみた友達みんな「みた方がいい」と言うのだ。「どうせ膵臓と同じじゃね?」と言うと「そういうやつじゃない」「カップルでみるのはおすすめしない」と興味を惹く感想までよく聞くもんでさすがに気になってきたので1人で観に行くことにした。わたしはやりくり上手なので(!)レディースデーを狙って。

ちなみに、なんでレディースデーが水曜日なのかというと、昔はデパートや百貨店の定休日が水曜日で、水曜日になるとおでかけする主婦層が少なくなって、それに伴って映画館の売り上げが落ち込むことで悩んでいた映画館の経営者さんが始めた施策が、主婦層に向けた「レディースデー(水曜日)」なのだ。今朝調べた。

ちなみにちなみに、膵臓の映画わたし見てません。あ、でも小説は読みました。本当にすみません。


結論から言うと、これはカップルで観るべき映画だと思った。あまりにもカップルで観るべき映画じゃなさすぎて、逆に長い目で見るとカップルで観るべき映画だと思った。きっとこの映画きっかけで別れてしまうようなカップルはいずれひどい別れ方をするに違いない。それを早めてくれて、時間を無駄にすることを防いでくれる、カップルを篩にかけてくれる最良の映画だと思う、わたしは。上映後、近くにいたカップルの彼女が「リアルだったね…」と彼氏に話しかけて彼氏が「……」となっていて心の中で大爆笑した。こんなんだからわたしは独り身なのだ。

ディスりに聞こえたらごめんけど、この映画には固有名詞が多く出てきすぎて頭がついていかなくなる。サブカルって言うのかなあ。言っちゃダメかあ。言ったら終わりかあ。昔、ああいうカルチャーをメインに好きでいる男の人を好きだった時のことを思い出した。シン・ゴジラもその人と話を合わせるために1人で見に行った。わたし自身そういう人たちの仲間に入りたかったのになんか嵌まらなくて入れなかったタイプの人間なので、ワードを耳で聞いて「…アーッあれね」というところまで理解するの、大変だった。特に小説家ゾーンはマジでわたしが疎すぎて何を言っているのかわからなくて泣きそうになった。わたしを置いて盛り上がらないで2人とも…

その中で「ワンオク」というワードが持つ意味が妙に気になった。同じ大学の仲間とかじゃなく、広告代理店勤めの絹の父親、つまり薄汚さのあるオトナの世界で「とりあえずワンオク!」という風潮があることを仄めかすようなあの使い方、ワンオク側の人間はふつうに怒りそうだけど、わたしは中立的な立場として「ワンオク」の使い方、すごいなあ!とひどく感心した。わかる、わたしもワンオク聴かないけど聞けます。ここ台本きになるなー!麦のセリフ、「聴けます!」じゃなくて「聞けます!」って書いてありそう〜。

もうひとつ気になったのが、絹が働き始めた医療事務の仕事終わりで名刺集めに繰り出したときナンパしてきた男の1人が発した「何ーラにする?(テキーラって言わせるやつ)」というセリフ。えぇ…は、はずかしい…共感性羞恥で死ぬかと思った。とてもじゃないけど絹の住む世界には行くことのできない人種が使う言葉じゃない?

あとごめんもうひとつ。土曜日一緒に舞台みにいくって約束してたのに麦は出張の前乗りしておきたい云々で口論に発展するシーン。「またか、みたいな顔する」「めんどくさい、みたいな顔した」などと、最終的にクソクソ生産性のないクソみたいな喧嘩になるのあるあるすぎて泣いた。出会ってすぐの頃はこんな喧嘩してなかったはずだし、置かれる環境が変わることで価値観がすれ違ってくる~の権化だ!となった。しんどかったなここ。誰も悪くないんだよほんとはね。

(ちょっと接続詞思いつかなくて唐突に話し始めるけど、)麦が、1人で残って仕事をしていてなんやかんやでパズドラをしているシーン。大学生時代から麦を見てきたわたしたちには「麦みたいなひと、パズドラなんかしねーだろ!」という絶対的な自信があったのにコンボまで組んじゃって。麦は変わっちゃったね。と思った。これ完全に絹側の目線なんだろうなあと思いながら。でもそのあと麦が「パズドラしかやる気が起きないんだよ」って言ってたので「パズドラ」の持つ意味はみんな共通意識だったのでなんだか安心しました。パズドラ関係の皆様、本当にすみません。

元々は趣味がめちゃくちゃ合う2人だったのに、男と女の価値観の違い、年月を重ねて置かれる環境が変わりながらも2人が生きていく上で表面化してきた価値観の違い。お互いの思ってることが心の声としてリアルタイムで聞こえてくるので、逐一「なるほど」となった。わたしはどこでも絹と同じ気持ちだったし、絹と同じ行動をしていたと思う。麦の心の声を聞くたびに「シンプルに意味わからんけどまあ言われてみればわかる気もするような気がする」みたいな、麦の心の声に対しては納得してないけど納得した。こういう価値観のすれ違い、もう20代半ばとなるとみんな経験ある気がする。なるほどこうやってわたしたちはすれ違ってきたんだなと思うといつのまにかしぬほど涙が出てた。

「別れようと思う」という気持ちをもった2人の心の声のメチャクチャ掛け合いみたいになってた結婚式のフラワーシャワー前のシーン。別れようとした絹にアドバイスする女は「別れたほうがいい」、別れようとした麦にアドバイスする男は「別れないほうがいい」。絹は「最後だからこそ笑顔で終わりたい」麦は「最後くらい笑顔で終わりたい」。ここの対比がしんどかった。何がしんどかったって今はまだ言語化できないので思いついたらまた書きます。

映画のタイトル「花束みたいな恋をした」について。
花の名前を教えることだけが過去の恋愛を思い出させるきっかけなんじゃなくて、ゼルダの伝説、ミイラ、SMAP、Awesome City Club、ドリンクバーで居座るファミレス、ゴールデンカムイ、しらす丼、イヤホンの右と左、焼きそばパン、etc...。一緒に生きてきた生活の中にあったなにもかもが、花の名前のように過去を思い出すきっかけになる=花束みたいな恋をした ってなかんじで帰結。まあこれは誰かの考察の受け売りなんだけど。これめちゃくちゃ腑に落ちるよね。
幸か不幸か「過去の恋愛での時間は無駄じゃない」と気付かされてしまった。となるとわたしが最初に述べた結論にちょっと矛盾が生じたけれど上に戻って考え直すのめんどくさいのでそのままにしとく。

最後に、「現状維持」じゃダメだと思うんですけど、これは女の価値観でしょうか????


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