Galileo Galilei(概念)へのラブレター

Galileo Galilei(概念)のことが好きです。Galileo Galilei(概念)には何度でも心を奪われる。Galileo Galilei(概念)のことが、どうしたって好きです。

Galileo Galilei終了のお知らせを聞き北枕のベッドの上でフリーズした2016年1月25日、青い栞で泣き崩れて柵とおでこが一体化した2016年3月6日のケイブビー、「また」が来るのかどうかは知らんけどとりあえず「またね」と言ってたくさんのGGフレンズと別れた2016年10月11日の武道館。「ショックでごはん食べられなくなっちゃった…」とか「もう音楽なんて聴かない…」とかあからさまなネガティブ変化はなかったけれど、あのときわたしの中で何かがプツンと途切れたままになっていたんだな、と今日実感した。

昔の曲では過去の景色がフラッシュバックしリアルタイムで聴けているこの現実が信じられなくて夢なのではないかとわんわん泣き、新しいアルバムの曲では「エーンやぱここシュキィ〜(IQ5)♪♪」とルンルンになり、MCではスンとなり、そしてまた昔の曲になると大泣きする、その繰り返しで感情ジェットコースターとはまさにこのことである。

隣の知らない女の子もわたしと同じタイミングでグズグズ泣いてておもろかった、この音楽、ずっとわたしたちのそばに居たんだよね、わかるよ、となってた、マジで知らない女の子。

全ての昔の曲に対して「令和に◯◯!?」ってなった。7年って意外と、短いようでめちゃくちゃ長い時間だった。元号は変わり、消費税率は上がり(Galileo Galileiのシングルは1296、お決まりだったのに)、わたしは職を三度変え、iPhoneは二度変えた。iPhoneあまり変えてない。そしてわたしはかなりマイペースで生きすぎているのでライフステージは変わっていないが、周りを見るとそういうところもえげつないくらい変わっている。ステージ上にいる彼ら含め。そこがわたしの中で引っかかってしまいなかなか素直になれなかったりしてたんですけど。してるんですけど。今も。

ステージに何度も立ってきたはずなのにGalileo Galileiとなると僕自身、僕ら自身になってしまうとオザキユウキが言っていたけれど、Galileo Galileiを聴いているときのわたしもそうかもしれない。パンピのわたしに表舞台の顔などないが、奥の奥の、真のというか芯のわたしとして向き合っている感じがする。良くも悪くも何か他の力に左右されないガチ"おのれ"が出ている気がする。多感な時期から"ゆきなさん"という人格形成に音楽で深く関わってきたGalileo Galilei、わたしこそがGalileo Galileiなのではなかろうか。それは違う。

毎度毎度細かくは説明してくれないままに、例に漏れず今回も、少々形が変わっていることをスルーできるほど、わたしも人間できていないところもあったけれど、今日わたしが観たのは正真正銘Galileo Galileiだった。武道館の後、いつか聴けたらなとは言ってみたものの叶うはずのない戯言レベルだったことが、Galileo Galileiとしてステージに立っているGalileo GalileiがGalileo Galileiをしている、ここまで現実になっていた。

感情ジェットコースターだったあまり、細かいことが記憶に残ってなさすぎるのが残念だけど、これからもGalileo Galileiは一緒に生きていってくれると強く思えた。本当にありがとう。

もうわたしたちから離れないでほしい、これからもずっと一緒に生きていってほしい、Galileo Galilei。