人生録(執筆中)

 OONSさんの記事を読むのが好きな夕暮れ時、連日の曇天に頭を押し竦められ、来たる新生活に如何にして備えようかと思考を巡らせることもままならずに一日を半分ほど費やしたことへの罪悪感からか、ふと、好きなOONSさんのとある記事を読み返すことにした。
 ここではOONSさんの性格を勝手に考慮して該当の引用をせず、勘の良い読者のみがその場を参照できるように明確なヒントを示しておくのみにする。ともかく、一度は読むべき名記事であることを記しておこう。

 改めて読み返して思い立ったのは「俺もここで人生を振り返ろう」という少しばかしの決意だった。誇れることも特にない恥ずかしい人生ではあるものの、24年を経てどのように俺というパーソナリティーが形成されたのかを記していこうと思う。
 手の込んだ自虐、若しくは自慰行為に近しい為、パウパー関連のみならずこれまで俺個人の記事を見てきた方も思わず目を覆ってしまうような羞恥心に苛まれる危険性を孕んでいる。
 これは自伝的ではあるものの、叙事詩ではない。


■ 0歳~3歳

 予め記しておくが、俺個人として過去の記憶は相当量頭に残っている。両親や姉貴すら覚えていない些末な出来事さえ覚えていて、それはこの幼少期も例外ではない。

 まだ座布団に収まる頃から俺は目立ちたがり屋であったらしく、二足歩行が出来るようになってからというものの何かにつけこんで両親の気を引くようなアプローチをしていた。リビングの柱をよじ登ってみたり、ソファの上から転落してみたり(当然痛いので泣く)、キッチンの包丁を手に取ってみたり。

 極めつけは姉貴の習い事の送迎中に、習い事先の駐車場で車内に閉じ込められた際の話。どうやら母親は鍵を車内に忘れたらしく、車内には俺一人が残されている状況。母親は「ここの鍵を開けて!」と扉を叩いて懇願するが、相手が悪い。状況を理解してはいるものの、開けたくないので開けなかった。その代わり俺は無駄にバカでかい泣き声を上げて、習い事のスタジオからは続々と観衆が集まり始めてゆく。周囲のマンションや住宅からも野次馬が集まる始末で、約1時間後に父親が職場からすっ飛んできて鍵を開けるまで俺はその状況を楽しんでいた。ドアが開けられた後、先ほどまでの大声が嘘のように泣き止んだことは言うまでもない。

 自分自身が目立つ為ならいかなる犠牲も払ってしまう時期であった。

■ 幼稚園

 姉貴と同じ幼稚園に入園したのが(職員にとって)運の尽きで、入園前に母親の付き添い等でよく遊びに行っていた為園内の構造を把握しきっており、年少時代からとにかく様々な場所に侵入したり脱走したり好き放題していた。
 年中時代のある日、バスで幼稚園に到着して間もなくいつものように体育館に侵入して好き放題鉄棒と跳び箱で遊んでから教室に戻ると、特に何の感慨も無さそうに担任から「〇〇くんいたのね」と出席簿に丸を付けられたことが当時最大の衝撃だった。それ以来、そのテの目立ち方は一定の閾値を超えると無意味であることを悟り、別の手口を考案する日々を過ごすことになる。

 根本にある目立ちたがりは当然年長でも変わらず、今度はその矛先が異性へと向くことになる。「モテ」を意識し始め、他の男子を押しのけて自分自身の優位性をアピールすることが自分の中で至上となっていった。そこそこ運動神経も良く、ひらがなの「せ」が書けない以外は勉学も比較的出来たことが幸いして、それらをこれ見よがしに主張することでアイデンティティを保っていたように感じる。
(ここに関して、正直パブリックな場所では書くことも憚られるようなこともいくつかやっているので、詳細は飲みの席にでも聞いて欲しい。多分話す。)

 関連して、父親の職場である中学校に付き添いで遊びに行くことも多かったのだが、その先で女子中学生から「かわいい~」と言われることを心の底から嫌悪しており、「俺は可愛いんじゃねぇ、カッコいいんだ!」と本意気で喚き散らしていたのを克明に覚えている。男性性の根幹とも言える「カッコよさ」に言及されず、正反対の「可愛さ」を褒められることが本当に嫌いだったのだから、当然の反応ではある。俺の拗らせ方がよく分かるエピソード。

■ 幼稚園:趣味

 どうやら元来何かを生み出すことに快感を得るタイプの人間であったようで、与えられた自由帳に漫画を描いたり、小説のようなポエムを書き連ねたりすることが好きであった。レゴブロックを説明書無視で組み立てるのも好きであったし、砂場で何かを作り上げることに関して右に出る者は居なかった。
 感情移入することも得意であったようで、姉貴と一緒におままごとや人形劇をして遊ぶことも大好きだった。今の言葉で言うならば憑依型というか、とにかくそのものになるという強みが当時の俺にはあったようである。

 最も大きなものとしては年少の頃に姉貴の影響でPCゲームに触れるようになったことだろう。当時はオンラインゲームという概念を知らなかった為、主な活動拠点はシフトアップネットやおもしろフラッシュ倉庫(老人会向け)。父親がダイソーで買ってきた不思議なシューティングゲームやピンボールで無限に遊べていた。
 やがて年長でバルビレッジという俺の人格形成に最も影響を及ぼしたオンラインゲームに出会い、それを契機として、目立ちたがりという俺の根本的な属性は天元突破することとなる。
 そしてついに年長後期でハンゲームに登録し、いよいよ本格的にオンラインゲームへと触れ始めてゆくが、詳細は割愛させて頂く。というのも、最初期は平和なゲームしかしていないため。

閑話ではあるが、ハヤブサ村の”てんどうそうじ”に聞き覚えのある諸君は是非とも連絡をして欲しい。それは俺。

 また、近所の兄さんからデュエルマスターズのカードを譲り受けたことでカードゲームへ熱中する契機を与えられることとなるが、その萌芽はまた別の話。


■ 小学生

 俺の出で立ちからわかるように、どう見てもいじめっ子の気質を抱えている。現に小学1~3年生は間違いなくそっち側の人間であったし、所属していたグループも”目立つ奴ら”であったといえる。
 しかしながら、小学4年生になるととある転校生の影響からその状況が一転し、靴を隠されたり私物を破壊されたりするようになってしまった。厳密に言うならば、その転校生と気が合ってしまったが為に仲良くしている俺ごといじめに巻き込まれた形になる。とはいえ、幼少期から身に付けてきた処世術(?)によって他の人間に擦り付ける形でその状況を脱することは出来て、小学5年生までは比較的平和な学校生活を送っていた。

 当時の俺は習い事を並行して4つ抱えており、サッカー・バスケ・水泳・ボクシングで小学生時代の運動をすべて賄っていた。先述した通り俺はオンラインのしかじかに熱中していたので、体育の授業以外に運動神経を研ぎ澄ます機会を多く取り入れることでバランスを保てていたといえよう。
 その影響からか、小学1年生から高校3年生までの間で体力テストの評価が一番上から揺らいだことこそなく、”足が速い奴がモテる”小学生の方程式を小学生時代前半で体現することとなった。

 だが時は2010年。ネットの影響でオタクとしての才能が開花しつつあり、「涼宮ハルヒ」作品を皮切りにライトノベルを読み漁るようになったことが全ての失敗であった。近所のTSUTAYAでアニメをレンタルしまくって視聴する毎日の中で、段々と私生活にその支障が出始める。というのも俺自身の失策なのだが、ライトノベルを学校の読書の時間に読み始めたことで、「どうやらあいつはオタクでキモイらしい」というのが学年に知れ渡ることとなってしまった。
 当時はまだオタク趣味に対して世間一般の理解が及んでおらず、とにかく同性・異性問わず気持ち悪がられるのが通常の世間の反応であった。それは小学生という狭いコミュニティでも例外ではなく、同性ならまだしも異性からも気持ち悪がられるという経験は、今も尚深く傷ついた経験として残っている。
 「めっちゃ運動できるけどめっちゃキモイ奴」という唯一無二の属性を付与され、モテていたはずの俺はいつのまにか学年の中で最もカースト最下位の腫れ物扱いをされるようになってしまい、例の転校生と共に再びいじめの渦中へと投げ込まれることとなる。

 しかし、そこで俺は自分でカードゲームを作成するという閃きを得たことでスパイラルから脱出することに成功する。テストが終わった後の空き時間や休み時間で白紙の裏を用いてカードを作成し、身内間でルールを制定して遊び始めるようになった。「強いカードは積み得」という当たり前すぎる理論にこの頃辿り着き、自分が作り出した強力なカードを自宅のコピー機で量産する等して相当に楽しんでいた。
 この盛り上がりを鑑みたのか、今までいじめていた連中もそのカードゲームに参加するようになり、結果として小学6年生の卒業までにはすべての関係値を修復することができたのは幸いである。自分自身のアイデンティティを認められたような気がして、俺はこれでいいのだという自信を持つことにも繋がった。
 如何に円満な卒業を迎えたのかはこの頃出会った友人たちが今でも尚良き友人であることに証拠を見出せよう。今思えばあの時はじめてカードゲームによる深いつながりを得たように思えるし、遊びによる繋がりが強固なものであると実感した最初の経験だったのかもしれない。

 尚、異性関連の話はこれまたパブリックでは書けないので、飲みの席にでも聞いて欲しい。


■ 小学生:趣味

 当然オンラインゲームにのめりこんでいた。
中心はアクションゲームやFPSで、特にFPSは腱鞘炎になりかけるまでに熱中していた。ハンゲームで公開されていた殆どのゲームをインストールして遊んでおり、PCをつけたときにSkypeでオンライン状態になっている友達に応じてその日のプレイするゲームを変えるなどして遊んでることが殆どであった。
 この頃のFPSが遠因となって今現在の俺の口の悪さに結びついていると自分では思っている。

 また、チャットにはまり始めたのもこの頃で、すかいぷちゃんねる(死語)や謎Webサイトで見ず知らずの人間とコミュニケーションを取ることが楽しくて仕方が無かった。あの日々は間違いなく俺のコミュニケーション能力を育てた要因の一つである。
知らん年上に対してアグレッシブに絡んでいくことこそあれど、礼節を弁えろという精神もこの頃身についていたように思える。

 そしてデュエルマスターズに関しては環境を追ってデッキを組み上げるという楽しさを知ってしまったが故に、本気でカードゲームにのめり込むようになる。かくかくしかじかによって情報を手に入れやすかった俺はその点優位性を持っていて、お山の大将として地元環境を牛耳っていたこともあった。
 自転車で行ける距離に公認大会を開催するショップが2軒あったことも噛み合って、真剣勝負で目の前の相手に勝つという快感を得やすい環境が整っていたのも好機であった。条件が整いすぎて、はまるべくしてはまっている。


■ 中学生

 俺の学区の中学校は2つの小学校の卒業生が集結して構成されており、俺が所属していた小学校はもう一方と比べると人数がかなり少なく、人数比でいうと1:4くらいの割合で飲み込まれていく形となった。
 飲み込まれていった、という表現が非常に適切で、円満に卒業したはずの俺たちにとって、知らない巨大なコミュニティに対して順応できるか否かは中学校生活を早くも決定付ける大きなイベントであった。当然個性が埋没する子もいたし、順応出来ずに不登校になったり、適応障害になる子もいた。
 かくいう俺は自分自身の個性を認められたという経験から、特にオタクであることも隠さずに生きていた。当然朝読書はライトノベルであり、オタク趣味に理解のあった担任の許可を得て大量にライトノベルを保管しておくなどして自由気ままに生活していた。

 その結果当たり前のように学年の仲間外れとなり、相も変わらず仲間外れ達でつるみ始めるようになる。

 部活動に関しても無気力であり、先輩が可愛いという理由だけで文芸部に所属することを決意。とはいえ小学校から続けていたボクシングは引き続き励んでおり、アマチュアながらもライセンスの所得にも成功する。テレビ埼玉の取材も受けた。
 しかしながら先輩は3年生だったが故に夏が始まると同時に部活動を引退し、文芸部に留まる理由が無くなった俺はすぐに文芸部を退部。その時仲が良かった同級生の所属する陸上部に転部という形で別の生き方を歩み始めることとなる。

 ここで陸上部として何故か大成してしまい、あれよあれよと副部長に任命されてしまう。果てには100×4mリレーの選手として選抜され、県大会へと2回出場。400mの選手として個人で県大会にも出場することとなったが、あまりにも気合が入っていた為過度なアップにより県大会の場でベストを更新することは出来なかった。それが心残り。

 とはいえ、陸上部で積み重ねてきた信頼や、委員会活動での表立つ回数等、日常生活で何かと目立つ奴が本当に目立ってきた為なのか、蚊帳の外になることは年々目減りしていき、3年生になる頃には陽のグループたちと仲良く遊ぶ程にまで関係は改善されていった。その影響もあってか、人生初のモテ期が到来する。信じるも信じないも読者諸君次第だが、マジの黄色い歓声を浴びたのはこれが最初で最後だったのかもしれない。詳しくは飲みの席で聞け(n回目)。

 紆余曲折あったものの、なんとか平穏な人間関係を築き上げ、5年後の成人式にも再び盃を交わすような仲が出来たことは本当に良かったと心から思う。読者の皆も久しぶりに中学生の時の友達と連絡を取ってみて欲しい。実は相手方も話したがっていたりするから。


★ 番外編:高校受験

 「定期テストで学年50位以内に入らなかったら次に50位に入る時までPCを触っちゃいけない」という掟が我が家にはあり、姉貴もほぼ同様の縛りを受けていたので俺もまたその縛りを引き継ぐ形となっていた。
 人生の大部分をインターネットに捧げた俺にとってPCが触れないというのは死活問題であるが故に、定期テストは是が非でも順位を高く保つように努力していた。尚、学年の生徒数は256人である。

 一応結論から言うと、サボり散らかしていた1回を除き他の定期テストは3年間で全て50位以内に入ることが出来て、結果として俺のインターネットは守られることとなり、知らず知らずのうちに高校受験に向けての土台作りが出来ていたのだった。

 余談だが、我が故郷である埼玉県には北辰テストなるものが存在し、その結果を基に様々な進路を相談するというのが一般的である。この模擬試験の権威は異常なまでに発達していて、個人の北辰テストの平均によって私立高校の”確約”を得ることすら出来たのであった。
親の七光りということもあり、内申点が申し分なかった俺は北辰テストで良い成績を残せばかなり上位の私立高校の確約を取れるという状況だったのだ。
 とはいえ俺と仲のいい読者ならおわかりだろうが、俺は致命的に数学が苦手である。
 一次関数が教科書に現れた時点でそっと数学ワークを閉じて窓から投げ捨てた過去が物語る通り、マジで数学を理解することが出来ず、3年間を通じて北辰テストの数学の偏差値は平均して50を満たなかった。
 なまじ他教科の成績が良く学習塾で最上位クラスに配属されたのも不幸で、他教科では呂布の如き無双を成していた俺も数学の授業ではあまりのわからなさに半泣きになりながら指導を受ける始末であった。
 高校受験当日に数学で「マジで昨日解いたやつ!!!!!」が出題されなかったら今の俺は存在していないかもしれない。

 数学の上振れもさることながら、他教科がほぼ9割取れていたことでなんとか高校受験に合格し、県北の伝統校に進学することが決定したのは幸いであるといえよう。
 高校受験時代の苦労は書ききれないので、また別の機会に。

■ 中学生:趣味

 オンラインゲームとしては、エルソードというアクションゲームをマジで3年間ずっとやり続けていたことが挙げられる。今でもサービスは続いているらしいが、本場韓国の盛り上がりは日本には無く、どうやら当時の盛り上がりは今はないらしい。
 ちなみに、俺が使っているHeterodoxというハンドルネームはかつてエルソードの韓国サーバーでPvP最強クラスと言われたエド使いの名前をそのまま拝借している。

 そして、俺の今後の人生をほぼ占めてしまうMTGとの出会いも中学生の頃である。存在自体は小学生の頃から知っていたものの、タルキール覇王譚の発売と同時にその時の友人たちと一緒にスタンダードで参戦。未知のカードの応酬があまりにも楽しくて、ぶっ続けでフリープレイして1日消し飛ぶことはザラだった。

 中学2年生の時、大宮のアメニティードリームで例のなおきと初めて対戦したのだが、こちらのターンのアップキープに《完全なる終わり》をキャストされたことが最大の衝撃として記憶に刻まれている。以来かくかくしがじかによって例のなおきとは仲良くなり、よく二人で飯を食ったり、修学旅行のお土産を郵送したりする仲となる。
 しかし中学3年生になると高校受験の影響でMTGも休止。高校に入学するまでは暫くの休止期間として受け入れ、来たる高校生活と共にMTGを再開できるよう情報収集だけは怠らないようにしていた。


■ 高校生

 恐ろしく順風満帆だった。俺の隣の席に座っていた男は自己紹介で「トム・クルーズです」と名乗り、その後生涯に亘っての親友となった。
應援團という組織が存在し、学校全体がその應援團に所属する人間に対して尊敬と畏怖の念を持つ特殊なコミュニティであり、生徒会長よりも應援團の団長は権力を保持していた。
 なまじ應援團の人間と仲が良かったためか俺個人のヒエラルキーも上がっていて、クラスメイトや同期たちとは良好な関係を築けていたのも幸いだ。
 プールの授業終わりに全裸のまま廊下をダッシュして先生にばれないように教室に辿り着けたら勝ちみたいなことを毎度やったりとか、積雪したテニスコートに下ネタを描いたり、休み時間中に全裸で校歌を歌ったり、あまりの暑さにクラスの半数以上が上裸になりながら授業を受けたり(先生も特に何も言わない)とか、ここでは書けないようなエピソードもいくらでも枚挙できる。とにかく日々が夢のような学校生活だった。

俺自身は「さすがにもう運動はいいか」と吹奏楽部に志望し、「サックス吹けないなら入らないです」と新入生のパート割を拒否。大勢の先輩たちに詰められながらも「絶対に辞めないなら」という条件付きでサックスパートとして入部することとなる。
吹奏楽部としての活動はいたって一般的であり、競技的でもなければカジュアルに楽しむような雰囲気でもなく、みな純粋に楽器の能力を向上させるべく活動していた。
 とはいえ俺の性格を知る読者の方なら推察できる通り、俺個人だけが競技的な音楽の取り組み方を推進していって、ひとりでプロのサックス奏者のところへ行って指導を受けたり、ソロコンテストに出場したりと、実績を獲得する為の活動を引退まで続けていたのだった。
 結果としてソロコンテストでは銀賞、アンサンブルで出場するコンテストでは銅賞を獲得できるまでには上達し、高校生から楽器を始めたものの経験者と遜色ない領域にまで達することはできた。

 高校2年生ではクラス分けに完全に失敗し、SNS時代の陰湿な嫌がらせを受けて気力を失っていったものだが、應援團の友人たちやプライベートでの付き合いのある友人たちのおかげでなんとか生存。今後俺が向き合っていく哲学に関する恩師ともここで出会い、勉学に関する分岐路は個人的に正着を辿ることができたと言えよう。
 高校3年生の時には前述の嫌がらせを受け学年主任を中心にいろんな先生が割り振りを取り持ってくれたようで、「おれのかんがえる最強のクラス」になることができた。おそらく40台にまで下がっていた偏差値もこの頃から急激に上昇し、最終的に65~70近辺にまで取り戻すことが出来たのは間違いなく環境をおかげであるといえる。環境が人を作るとはよく言ったものだ。

 恋愛面に関しても特に不自由はなかった。男子校とはいえ同駅には同じ名前を冠する女子高が存在していたし、高校2年の時にはおれの様々なものが幸いしていろんな異性からモテるようにもなった。
 この頃の異性関係で最もユニークなエピソードがある。アンサンブルコンテストに出場するとパンフレットに本名が記載されるのだが、その本名を頼りにTwitterを特定され、他校の女子生徒数人からフォローされてDMが送られてきたことがある。その後は当時のおれの性格があまりにもゴミだったことが災いして特に進展することはなかったものの、はじめての逆ナンということで俺の鉄板エピソードと化しつつある。


★ 番外編:大学受験


 俺の高校は”四年生高校”と揶揄されることがあるが、それを示すように基本的に学校生活が楽しすぎるあまり65程度の偏差値で入学したにも関わらずほぼ全生徒が40台にまで降下してしまう。そこから70近辺にまで戻すのが高校3年生の全員の課題である。
 勉学に対するブランクがやはりあるので、英単語帳を一冊暗記するところから始まって様々なアプローチから受験への足掛かりを作り出すことが必須である。俺の場合は英単語帳を一気に暗記してから英熟語、英文読解と駒を進めていたが、最初から英文読解を始める同期ももちろんいた。
 2年次に文理の選択を迫られるのだが、俺は既に理系学問をあきらめていたために無条件で文系の道を開拓していった。文系の勉強というのはやはりCram式であって、大学受験ともなるとこのCram式の勉強の極致みたいなことしかほぼ行わない。ストーリーテラーの要領で世界史を覚えたりするが、それもやはりCram式であって、真の理解に達するということは難しい。
 「これによって本当の理解を得たことになるのか?」という問いから、「真に知識を獲得することとは?」といった問いに発生して、ひとりで自習室の中禅問答を行うこともままあった。哲学人としての萌芽がみられる。

 大学受験のあの日々は新たな知識の獲得という点において素晴らしい日々だったように思えるし、実際楽しく学んでいたことは間違いない。しかしながら、平日に8時間、休日は14時間勉強していたあの日々に戻りたいとも思わない。

 結論から言えば、センター試験で89%の得点率を叩き出したもののセンター利用での受験は全て不合格。各私立の受験に関しても滑り止め以外は全て不合格となってしまった。
第一志望は一次こそ受かったものの二次で弾かれ、人生の詰みを感じたのは言うまでもない。
 これには近年の私立大学に関する定員の厳格化が大きく影響を及ぼしている。地方大学の活性化を大義名分として、ある一定の定員以内に合格者を収めることで国から助成金が届くというものだが、これによって地方大学の人気が上がるという訳でもなく純粋に都市圏私大の倍率が跳ね上がる結果となってしまった。
 それ故、いわゆる日東駒専ラインは以前のGMARCHラインへ、GMARCHラインは以前の早慶上智ラインへ、早慶上智ラインは異次元の領域にまで倍率と合格最低点が引き上がることとなったのだ。
 厳格化が始まってからというものの最早二次関数的に上昇していった倍率は青天井で、有名私大の「7割取れれば受かる」は幻想と化し、「8割取ってお祈り」の次元にまで達してしまった。

 得点開示こそしていないものの、7割方しか得点出来なかった俺は見事に弾かれてしまったのである。
こんなにも生まれた時代を恨んだことはない。数年ズレていれば受かっていたという事実は、人格形成のトドメとして屈折した俺を作り上げる要因となっていった。
 今思えば、この出来事が俺の実績至上主義を構築していったように感じる。肩書きを名乗れないことに対する異常なまでのコンプレックスはこの時から根深いものとなっていった。

 父親の定年も近く浪人することも憚られた、というのは建前で、浪人する覚悟が全くなかったのが一番の理由だろう。全くもって浪人する気は無かった。「住めば都」という姉貴からの言葉、「人生万事塞翁が馬」という父親の言葉を利用して滑り止めの大学へ進学することとなる。


︎⬛︎  大学生


 飽きてきたのであとで書く



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