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無数の沫の一つ一つに

蒼白い羽が風に飛ばされて、朝日懸かった都市の風景の、白い給水塔を越えて、誰も触れたことのない空間へ向かって上へ上へ落ちていく。

「ねぇ、何を見ていたの?」

「優しさと、溶けていくものを」

地上では八十億の動物たちが神さまを探して、狭い地球の隅の隅まで這ってまわる、昆虫みたいに、遠くから見ればバクテリアみたいに。

「太陽は普遍だろうか」

「乱立するビル群よりは、一人一人に寄り添ってくれる」

春の陽気、綺麗な三角屋根の陰を踏んで、全身に陰を纏ってみる、まるで非日常の中で日常の死灰を探しているような、何ともきれいで、気味の悪い感覚が身体中にまとわりついてきた。

路地の中で夢を見る、

瑞々しい花壇の花がこちらを覗き、汚れた外壁は列をなして、罅をしるしとして、佇む音を広い集める。

鳥の声が、子どもの声が、風のそよぐ音が、

なんて贅沢な、

でもいずれ白いペンキで塗られたとき、誰も、何も、呼吸できなくなる。

純粋でいることは難しいということを知った。

「小さな子どもが大きな犬を連れて散歩をする、あの光景だけが今は美しい」

「いずれなくなるから?」

「そう、必ず」

朝日が僕らの道を作る、

光が照らす道だけを歩かないと僕らは凍りついてしまう、陰に咲いた花は誰にも気づかれず踏まれたんだ。せめて最期くらいは誰かの目につく場所で。もっと僕に光を、遮らないでくれ、だから僕は雲が嫌いなんだ、ボードレールが愛した雲さえも。

「聖者の死体にはワインを、土には還らない」

「どうして?」

「然るべき場所へ行くだけ、そのための標を」

毎日繰り返される同じ作業は、彼を狂わせた。なぜその仕事を選んだのか、択は一つだけ、それを選ぶしかなかった、仕方がなかった。

理不尽を前提とした社会の中で正しく生きていく術も、幸福を掴む方法も何一つ持ち合わせておらず、彼の中にあったのは虚無と後悔だけだった。

彼の生活は徹底的に人間性を排除したもので、食事も簡素なものばかりだった。家の中ではただ横たわるだけで、外では街路樹のように人目に触れても話しかけられることはなく、ただそこに存在するだけ、ある意味「浮浪者」であり「幽霊」であり「液体」だった。

行きたい場所もなく、やりたいこともない、彼は必ずお金がないと自分に言った。彼にはこれは言い訳ではないという確信があった、事実、彼の仕事では自由を享受できるほどの金は得られず、金という存在は彼にとって新しい拷問器具にしかならず、肉体と精神を縛り付ける要因でしかなかった。

そういう生活が続いていくうちに彼の目が映す像は、ぼやけた上で酷く歪み、たまに黒く塗りつぶされた。思考力は衰え、機械よりも物質的で、脳のない昆虫のように手足をバタバタと動かすだけの、奇妙な何かに成り果てた。

どうして何も言わなかった?

誰に?

誰もいない。

片足を見えない何かに掴まれたまま、彼は息をする、今日が始まる。毎日が同じことの繰り返しだが、彼にとっては違う毎日だった。

毎日違う痛みが彼を地獄へ誘う。

そして彼は、砂漠のような渺茫とした地獄の中で一人、こう思った。

頭を締め付けるなら、それ以上の強さで、この手で締め付けてやろう、

骨が痛いなら、思いっきり何か硬いものにぶつけて、

肉の痛む部分は錆びたナイフで切り取ってやる

体の奥の、その奥が痛むなら、そうだな、

……。

彼は孤独の中で自分だけを徹底的に痛め付けた。痛みの数だけ、彼の地獄に花が咲いたような、そんな気がした。

誰も彼を労ることはない、もちろん自分自身さえも、

彼は破滅する未来に身を委ねるしかなかった、彼を守るものは何も、誰もいない。

結局、彼が自分自身に対して、寄り添うことは一度もなかった。

そして彼は死んだ、そして幸福が訪れた。

「この星は器だ、あらゆる命を受け入れる。

命は沫だ、産まれては無くなる。

沫と沫が繋がり合わされば、自然と世界は作られる。

誰も与えられることはない、でも選ぶことはできる」

「間違い続けた選択の先にも、幸福はある?」

「幸福はとても小さい、沫よりも、

それでいて点でしかない、

とても見つけにくいものだ、

でも必ず存在する」

「どこに?」

「無数の沫の一つ一つに、ほら、ここにも」

給水塔


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