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衝動を憧憬として

衝動を、衝動として理解出来るならそれは衝動でない。自制できるものの中に本当の魂の叫びは含まれない。

破壊と創造、幸福はいつも当人の知らぬところで発生している。

はてさて、あの方の芸術はどこから来たものであろうか。

彼曰く、裡にあるとか死の縁辺りにあるとか仰られておりますが、体を切り裂いてもそれらしきものは見当たりませんし彼は微笑むだけで、しかし私には彼が嘘をついているとも思いません。

彼はいつも引っ切り無しに「破壊した」と喉元を絞って小さく叫んでおりました。

何を?自分を?芸術を?世界を?

私には彼の凶行の僅かばかりしか理解できていない!

わからない、裡を覗く術はどこにある?

 そういえば、彼と私で夜な夜な行う遊びがある。どうしようもない暇な時間、或いは夜の静寂が逆流して喉元にグロテスクな違和感を覚えたとき、二人で嗜んだのが『例え遊び』だ。そこで私は彼の身心の裡を垣間見ようと考えていた。一つ私の過去問を出そう。

『羽のない天使を他で例えるなら何だ?』

もちろんこの問には解などないのだか、私達はどこかに存在するであろう「ある一点」を目指して矢継ぎ早に解答を出し合った。およそたった二人のブレインストーミングのようであった。

まず初めに私の題に対し私自身が答えた。

「うぅん、例えるなら『人』か。羽がないなら地に落ちるだけさ、真っ逆さまに。その天使が人の形なら、この地上では平等に人だ。良くも悪くも『ただの人』だ。」

それに対して彼が答える。

「それは例えではなく事実かもしれない。まぁ僕は天使なんて見たことないけどね。ああ、そうだ、輪っかがあるんじゃないか?羽がなくても輪っかだけでソレは天使だ、きっと。」

その後にも、天使における輪っかの役割とは何か、だとか、羽のない天使の絵画が存在する、等といった関係のない話に発展しては再び本題に戻るといったように、彼方此方に目移りしながら、僕らの、行く宛のない『例え遊び』の旅は行われる。

彼が本題に戻す。

「そうだ一つ思いついた、こういうのはどうだ?『嘘を忘れたピエロ』なんてのは。」

「というと?」

「さあね、なんだろう。なんとなくだけど戯けや冗談、嘘とか大道芸なんかを忘れてしまって仕事を失くした哀れなピエロを思い浮かべたよ。天使っていうのは神の使いだろう?きっと羽がないと仕事ができない、神にも怒られるだろうな。」

私は彼の答えに少々驚いた。彼は仕事とか、社会的なもの、世俗的なものとは縁のないと思っていたからだ。

「先生の、その答えはその、仕事人間というか、なんだかリアリスト風ではないですか?」

彼は少しだけ笑いながらこう言う。

「何言ってるんだ、僕はいつもリアルを追求しているよ。別に私は写実主義ではないが、絵を描くときには、上から覗いたり下から見上げたり、左右から、斜めから、遠く、近く、温度も感じた。それが最も重要だと感じる。僕は芸術家として何年も仕事をしてきたが、リアルをおざなりにしたことはないし、僕は空想と妄想の境界線もそこにあると思っている。人間というのは何世紀も前から、今に至るまでずっと、リアルの奴隷として生きて、そうしないと何もかもを実感できないような、そんな気がするんだ。」

私はうんうんと頷いて話を聞いていたが、彼の言葉を全て理解できたのか怪しくなって、その場で時が止まったように身体を静止させ彼の言葉を脳内で反芻しようとしたが、その時にはもう、どこにも彼の言葉は残っておらず、アスファルトに落ちる牡丹雪のようにすうっと消えて、私が、偉大な彼の傍にいるのが何かの間違いのように感じられた。

「次は僕が問を出そう」

彼はそう言って、右手で甚兵衛の左肩付近を摘んで軽く引っ張り、服装を正したあと、座布団の上で胡座をかいたまま腕を組み、続けてこう言った。

『人のいない理想郷を例えるなら何だろうか。』

一瞬、間を開けたあと、私が質問する。

「理想郷ですか、それも人のいない。そもそも理想郷とか如何様なものか、エデン或いは日の当たらない深淵か。理想郷の定義は人それぞれある。だがこの題は――」

「そこに人はいない」

私と彼の声が重なった。私は少し気まずくなって、すぐさま別の問を投げかけた。

「それじゃあまず、先生にとって理想郷の定義とは?」

すぐさま彼が話す。

「ううん、そうだね。私が思うに一面の花畑でも、インフラがきっちり整ってテクノロジーで進歩した近未来の都市でもないような気がする。理想郷とは人そのものなんじゃないかって思うんだ。理想の人間たちだけが住んでいる場所、豊かな道徳心を持って他者を思いやり、社会のために貢献でき、また社会も人を思いやれる世界、そこで生きる人々。けれどもこの題は『人のいない理想郷を例えるなら何か』だから、理想郷イコール人だと話が行き止まるから、僕が定義する理想郷は『道徳心』としてみよう。」

私はただ黙って彼の話に耳を傾ける。するとまた不思議とあの忌々しい静寂が私の喉元に込み上げてきたので、私は透明な吐瀉物を吐き出さんとする竦んだ身体とゾクゾクとした不快感を抑えて、なんとか平静を装い、忌々しい静寂と彼の話を同時に飲み込んだ。

彼が続ける。

「では道徳心は何に宿るのか、ということになるのだが、人がいないのであれば、道徳心なんて物もただフワフワとその場に漂っているだけの空気みたいなものであって、結局はまたさっきと同じように、全く何も意味がないものになる。つまりは僕が定義する理想郷の範疇で例えるならこの題に対する答えは『虚無』だ。人のいない理想郷は暗闇であり宇宙の外側であり完全なる無の世界であり虚無なのだ。」

彼はそう言ったあと少し哀しく俯き、両手のひらで軽く腿を擦ったあと、ほんの少し笑ってその場で立ち上がり「破壊した」と小さく呟いた。

静寂が彼のその言葉を滞りなく私のもとへ運んできたものだから、とうとう私は透明な吐瀉物とその他の余計な物とをごちゃまぜにして、すべて吐き出した。その瞬間、私は紫黒に色を変えた畳の上に突っ伏すようにして蹲り、まるで卵をかき混ぜるようにグルングルンと回る脳内を抑え、聞こえるはずのない騒音と耳鳴りの中で酷く泣いた。

「既に定義されたもの、僕が新たに定義したもの、それらを破壊しては再び構築して、幾度となく「可能性」というものを再生して漸く一つ創造される。我々は常に破壊を余儀なくされる。それは同時に再生と創造に対して責任を負うことにも繋がる。ただ一方的で無責任な破壊は人間の愚かしきエゴであって、まったく軽蔑せざるを得ないものだ。」

私は畳に突っ伏したまま、彼に訊ねた。

「どうすれば私は貴方のような人間になれるでしょうか。」

彼は無言で私を見ている。

 私は弟子として彼のもとに就く前から、彼に憧れていたけれど、もしかすると私が憧れていたものは、彼でも彼の芸術でもなく『芸術』そのものだったのかもしれない、そう思った途端に体の中から何か得体のしれないものが逆流して、何度も嗚咽した。私は結局、ただの凡人で、何の才能もなく、常に勘違いをしていなければ現実を生きられない哀れな存在でしかないのだ。

 ずっと前に地方の役所での仕事を辞めてから、数年間に及んで偉大な彼の元に寄生虫のようにへばりついて技術など教示していただいたのだが、結局私は彼のようにはなれず、ただいたずらに彼の時間を奪い取った愚かで浅ましい矮小な存在でしかないと理解した。

すぐそばで彼が話をしている。何の話だろうか。ああ、私達は一体何の話をしていたんだっけな。

私は薄く目を開いて、涙の隙間から一人の偉大な芸術家を覗き見ていた。

「君は幸せなんだよ。妻子がいて、金もある。毎日早朝に起きて、河川沿いを散歩するから、心も身体も健康で、まるで人間のプロフェッショナルだ。誰よりも模範的な人間で、誰よりも礼儀正しく、誰よりも優しく、誰よりも聡明で、誰からしても君は理想の人間であり、理想郷だった。」

彼は最後にこう言った。

「僕はね、思うんだ。」

「天国に在る花を描くのではなく、地獄に咲く一輪の花を探すんだ。それが最も美しい。」

私は今、宇宙の外側との境界に立っている。わたしのいない私。わたしのいる私。

彼を、彼の魂を突き動かすのは、狂気と破壊、そして煉獄にも似た無限の衝動なのかもしれない。


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