怯え
彼は奴隷として8ヘクタールにも及ぶ広大な農地に対してキリもなく鍬を振るっていた。朝から始めて日が沈むまでその作業を繰り返すのだが、一日に貰える金は6ポンドだけだった。しかもその内のいくらかは毎日のパンとミルク代に消えてしまう。
それでも彼は有無を言わさず働き続けた。たとえ金と時間、命を減らしたとしても。
他にも数人の奴隷がいたが彼が一番まじめに働いていた。別に不真面目で怠けている奴隷が雇い主から『罰』を受けていることを知っていたからでも、雇い主に反抗的だった奴隷がある日突然姿を消したからという理由でもなく、彼には元来持ち合わせていた性格としてのまじめさが備わっていたからだ。
彼はこの場所が好きだった。この場所は広い、誰にも見つけられることはないだろう。常闇とは違う、もっと人間の理解の範疇にあるような、絵画の中の風景にも似た目の前にある光の世界――。
渺茫とした草原が山々に囲まれて、家々はぽつりぽつりと点在している。空は惜しげもなく広がっていて、すべての鳥が彼には自由の象徴にみえた。
彼は暫く、自分が奴隷であることを忘れていた。
そしてまた、彼は鍬を振るった、他の奴隷たちよりも力強く尚且つ正確に。ミミズを潰さないように祈りながら日が沈むまで、有限ではなく永遠に、一連の動作や力加減は身体が覚えているので仕事のやり方についていちいち考える必要はなく、頭の中では忙しなく空想と知的好奇心が小魚の群れのようにぼやけた大きな像として行ったり来たりしていた。彼は思考をするのが得意であったが話すのが苦手で誰にも空想の話をすることはなく、おかげで声帯は萎縮し声の出し方も忘れてしまっていた。そして今日も誰とも話すこともなく眠りについた。
ある日の朝、彼がいつもの時間に目を覚ますとそこに全く知らない男が立っていた。
男は彼に荷物を纏めて外に出るようにとだけ伝えた。彼は訝しげに男を一瞥した後、無言のまま男に従った。
数十年に及ぶ奴隷生活の中で初めて経験するような理解し難い出来事と知らない空気感に狼狽しつつ、荷物を持って外へ出ると、先ほどの知らない男と雇い主がトラックの前に立っていた。
雇い主が彼に言った。
「君の新しい仕事場が決まった。そこはここよりずっといい場所だ。地下の作業場だが賃金も上がるし食事も豪華だ。もちろん部屋だって豪華だよ。……いいかい?この話は君だけのものだ。君は優秀だったからね、誰よりも」
彼はこの言葉を聞いて不安と恐怖に見舞われ、自分がこの世界の誰よりも不幸であると悟った、と同時にこの状況で最も適切な行動は逃亡であると直感的に理解し、それが当然の行動であって咎めなど一切含まれないはずだとも思ったのだが、肝心の逃げる方法が思いつかなかった。それにもう手遅れだ。
長い奴隷生活の中で一度も雇い主に反抗したこともなく、風が吹いたらカサカサと揺れる枝葉のように当然に雇い主の言葉を飲んでいた。つまり最適化された奴隷として森羅万象よりも規律を守り、秩序を重んじた。これが誰かのいうところの「素直さ」なのだろうか。
雇い主に少しずつ詰め寄られるも、彼はまるで飛び方を忘れた鳥のように地面に立ったままで、時おり片足を少し浮かせては少しだけ後ろに下がることしかできなかった。
彼は今まで大空を飛ぶ鳥たちを見て感じたのは、自由なんかではなく、ただの憧れや崇拝の類のものだったのだと気づいた。
彼はとうとう雇い主に腕を掴まれトラックの荷台に放り込まれた。
荷台の鉄扉が閉められる寸前に見えた彼の顔は、紛れもなく「怯え」そのものだった。