山を下る

何かのコラムで、50歳以降(確か)を生きていく中での心構えみたいなものを「山を下る」と表していたのを読んで、なるほどと思った。
若いときはがむしゃらに、上昇志向というか、
もっと頑張って、
もっと強くなる・もっと偉くなる・もっと豊かになる・もっと高みを目指す、みたいな感じが、
周囲からも望まれるし、自分でもそうあるべきで、当然だと思っていた。
でも、未曾有の感染症に脅かされた世界・時代で40代を終えて、強制的に動きを止められ、立ち止まらされて以降、自身の体力や気力、興味や視野が、10年前よりも変わっていることに気づかされた。
感性など同年代の平均よりは若さを保っていたつもりだったのに、やっぱり、そうでもなくなってきた。
職場を見回してみたら、いつの間にか同世代が減り、30代前後の中でぽつねん、実はマイノリティの立場だ。
職位としては同じだけど、彼らと同じようには頑張れない。
辛うじて、経験値で力の入れどころ・抜きどころを察して、なんとかそれなりにやれるけど、決して同じ土俵には立てない。

ちらつくんだよ、そんなとき。「山を下る」

フェイドアウトとも違う気はするけど、土俵やステージが違うことを受け入れて、周囲にも理解してもらう必要があるんだよな。
だって、こればっかりは、抗えない大きな流れ・順番だもの。
そんなもやもやを咀嚼してみたり、忘れてみたり、不意に思い出してまたモヤモヤしてみたり。

つい先日、ぽっかり予定のあいている週末をどう過ごすかなと思っていたら、なんとなく「大山」という地名が意識の中に浮上してきた。
行ってみた。
ケーブルカーで下社まではあっと言う間だった。
登山口はこちら、みたいなのを見て、自分としては珍しく、どうしようか悩んだ。
そして、途中で降りる、というのも選択肢の内だよと言い聞かせて鳥居をくぐった。
ファミリー向け・初心者向けなんて言葉を鵜呑みにした自分を悔いた。
数十メートル登っただけで、心が折れそうになるくらい、割とガチな山だった。
でもそこは元来の負けず嫌いが、背中を、まさに後ろからぐいぐいと自分自身を押し上げて、どうにか下社から奥の院まで到達することができた。

山って、「行きはよいよい帰りはこわい」。
登るときは集中しているし、必死だから、えいやって足を伸ばして進む。
がむしゃら、とはこの状態だと思う。
下りは、うっかり油断をすると滑って足をとられてしまうから、その一歩の選択が割と肝心で、迷いなく進めていれば軽やかなのだが、一瞬、どこに歩を進めようか躊躇してしまうと、途端に判断力が鈍る。
そして、進めた一歩を踏ん張ろうとする→ひざに負荷がかかる→つらい。
トレッキングポールを握った同年代の女性が躊躇している脇を、ジーンズ姿でひょいひょいと軽々下っていき、「なんでー?すごーい」と言われて背中越しに、密にどや顔だったけれども、最後の最後、下社の鳥居へ戻る階段ではさすがにしんどかった。
どれだけ錆びていようがお構いなく手すりにすがったし、ひざが笑いすぎておかしくなりそうだったから、後ろ向きで階段を下りてしまった。

下社で改めて御礼を伝えるために参拝した。
境内に新装したようなカフェがあって、「お神酒」として地ビールがメニューに書いてある。「お神酒」だからと言い訳して、飲んだ。
下るのって、勢いだけじゃだめで、慎重さも必要で、自分の具合も自分で確認していく必要があって、登るのとはまた違うんだよね。
ああ、人生そのものだ。
黒ビールに似た濃い茶色の液体を喉に流し込んで思う。

その後、阿夫利(あふり)神社は、雨降り神社の言葉どおり、雨が降り始めた。
下りがしんどい、危ないと、あれだけ実感した直後にも関わらず、ビールの幸せで秒で忘れた。
ケーブルカーには乗らずに歩いて下山し始めてしまった。
階段につぐ階段。
修行だった。

引き際の美学、というか、山を下りていく様や姿勢、ここも大事だなあと思う。
美しく下りていけたらカッコイイなと思う。

上手にまとまりきらないけど、急ぎこの感覚を残しておきたくて、記してみた。

ちょっとおいしいおやつが食べたい。楽しい一杯が飲みたい。心が動く景色を見たい。誰かのお話を聞きたい。いつかあなたのお話も聞かせてください。