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また、つらつらと、‘わたしの人生’を。

とっても久しぶりのnoteになりました。
手の動くままに想いを綴ったときから、約1年ぶり。

開くことが少し、怖かったのかもしれません。
ズキズキと痛かった一年前の投稿も含めてまた全部、消去してリスタートしようかとも何度も思ったけれど…
それをせず残したままにしながら、
これまで生きてきた私の人生ぜんぶ、抱きしめて生きていくんだ。と思えるまで、一年かかったんだなぁと振り返って感じています。

noteを綴ることは、正直、怖い。
怖いものの正体は、わかっているようで把握まではしていないのだけど、
「書くこと」に意味があることだけはハッキリとくっきりとわかるので、
まさに自分のnoteに書くように、吐き出し場所としてまずは書いてみようという、今です。

あれから、わたしを突き動かしてきたものは、
「この地球上で、どうやったらわたし、気持ちよく息をして笑って生きれるの?」という問いだけでした。

苦しかった。辛かった。
人との出逢いと別離を繰り返して、
散々「笑って生きてく!」って決めて、痛みと向き合って。
生きづらくて泣いて、人には「大丈夫!」と笑って、いきがって。
痛くて痛くて、この痛みからいつ逃れられるのかな?という想い。

生きていたくない世界。とまでは言わないしどこか絶対言いたくないけれど、
「生きている意味のある世界ではないな」と思いながら、
‘命あることに感謝しなきゃ、生きたくても生きられない人もいるんだから’と、
感謝しなきゃ病も何度もやってきたし、
「世界をそうやって見ているのはあなただよ」と言われても、
そう、見ない方法なんて、わからなかった。
誰か教えてくれよ、って思ってた。

「幸せに生きたいだけなのにな」と思いながら、
「幸せって、なんだ?」と同時に思ってきた。

勉強もスポーツも、競争にはそれなりに勝ってきて、
世間ではそれなりにマルとされる大学行って会社入って、
成果を出すこと、男性と対等に戦うこと、身体を壊してズタボロになって、
「今度こそは幸せになりたい」と願った出逢いも結婚も、
「優しいお母さんになりたい」という小さな頃からの夢も、

全部、終わった。

私にとっては、人生第一章、みたいなものが終わって、
「‘これまでの生き方’では、うまくいかなかった」という結果を受け止めながら、(ゼロになって受け止めざるをえなかったから)

「ここからの人生は、何を生き甲斐にして生きていこうかなぁ」と、
一生懸命生きる意味を求めながら、
どこか、他人事だった。

息吐いて吸って、してたら、それでも‘生きて’るんだ、って、
それでも「生きてる意味って、何なの?」って思うのって、何求めて生きてんの?って自分に突っ込みながら、

生きる意味が、欲しくて、
‘ただ、生きる’ってことが出来たらどんなにか楽なんだろう、って思って、
そんなこと考えてる自分を客観的に見たら「そうやって、どうせ暇なんでしょ。自分に酔いしれてるんでしょ」って思ったら、情けなくて。

どこまでも、誰かに必要とされるか、社会に必要とされるか、
そしたら、生きようかなぁ。
世を去る勇気もなければ、自分で環境を変える意欲も意志も、ない。

それでも、一人でも必要としてくれる人がいて、
人生という人生が流れていく中で、きっとわたしの人生はまた流れていくんだろう。くらいに思ってました。

そんな毎日も、ちょっとずつ、ちょっとずつ。

ずっと持ち続けていた「この地球上で、どうやったらわたし、気持ちよく息をして笑って生きれるの?」という想い。

ほんとうに消え入りそうになったり、かなぐり捨てられそうになったり、再燃したり、握りしめられたりしながら、よく在り続けてくれたと思うけれど、この希望の光みたいな問いがどこかで在り続けてくれたから、

この一年は、振り返ると、宝物のような一年だったな、と、
いま振り返って、思います。

わたしに、たくさんのプレゼントを与えてくれた。
少しずつ、もらったものを、つなげて、いまの私に在るものを言葉にしたいなって思っています。

自分を大きく見せない。
誤魔化さない。言い訳しない。真っ直ぐに。

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