電気水道のない生活、ドキュメンタリー、ドロップアウトした人たち

先日あるドキュメンタリーを見た。家族は電気水道なしで生活している。面白かったので、このドキュメンタリーについて記事にしたい。たとえば100年今から戻れば生活に火があった。火は暖房であったし、調理コンロであったしまたオーブンでもあった。


これはそういう生活を選んだ人たちのドキュメンタリーだ。(ドイツ語字幕しかなかったが、内容は難しくない)

タイトルは「Aussteiger in Deutschland: Leben ohne Strom und Wasser」

和訳すると「ドイツのドロップアウトした人たち 電気と水道のない生活」と言った感じか。

日本でも都会から離れて生活したい人やその生活のルポなどは尽きない。しかし私が面白いと思ったのは、カップルや一人だけでこの生活をしているのではなく、家族で住んでいることだった。


理想の暮らし

彼らはデュッセルドルフの東、ノルドライン・ウェストファーレン州のバート・ベルレブルクの農場に住んでいる。初めに上空からのこの場所を撮っているが、本当に何もない。

農場を営み林業を生業とするOliver Junker-Matthes(オリバー ユンカー マテス)さんと彼の妻が、20年前この暮らしを始めた。都会の、常に「もっと(mehr/more)」と新しいものを増やすような暮らしではない、シンプルな暮らし憧れを抱いていた。

出で立ちや年代からもヒッピー思想、ネイティブアメリカンに対しての憧れのようなものを感じるが、このドキュメンタリーではそのような紹介のされ方はしていない。また影響はあっても自然に対しての敬意と、環境に負荷のない暮らしというのが彼らの根本的な思想である。

プリミティブな、簡素な暮らしは彼らにとって理想の暮らしだった。

その理想がどれくらいそれが現実になったのか

彼らには今3人の子供がいる。長女は今職業訓練校に行くためにケルンに住んでいる。長男は大学に行くためAbitur(高校卒業資格)を取るところだ。次男で末っ子の子は14歳くらいだろうか。年齢は具体的に述べられていない。彼はもちろん毎日学校に行っている。

ここから見て取れるのは子供達はそれほど極端な進路ではなく、比較的安定した道をとっている。

例えばカップルだけで、林業を営む夫とその妻が農場で電気、水道なしで生活するのはそう難しくないだろう。しかし、子供がいれば話は別だ。彼らは幼稚園、学校に行かないといけない。そこの社会に馴染むにはある程度綺麗な身なりである必要がある。汚れだらけの服だったり何日も洗っていない服だと子供もいじめにあうかもしれない。

そのため彼らは週に一度、発電機を使って洗濯機を回す。社会規範をある程度満たす、それなりに清潔な服を着るためだ。

それ以外電力が必要な分は太陽光発電で賄っている。また発電機の洗濯機を使った残りの電力で子供達はスマホを充電したり、パソコンゲームをしたりする。子供達へのインタビューがあるが、彼らはこの生活は当然のものであり、不自由にはさほど感じないといういう。また、ステレオタイプとして、ドロップアウトしたような生活の中で、社会性が培われなかったりうまく人と話せなかったりしそうだが、彼らはそうではない。みんなはきはき喋るし、自分の考えを明確に伝えている。

両親もこのドロップアウトした暮らしを子供に押し付けすぎない一方で、子供達はこの暮らしをリスペクトしている。自然の中で静かな家族との時間がたっぷりある暮らしをみんな気に入っている。

生活の中での矛盾

例えば、ドロップアウトしたような生活に対して過度に批判的な人もいる。そう言う人はおそらく、初めのシーンで、朝早くに父親がLEDランプのついたヘルメットつけて暗がりで薪を割ることに対してその矛盾を批判するかもしれない。

ドキュメンタリーの最初のシーンで、いきなり視聴者に対してこの理想の暮らしの矛盾をつきつけるのは、すこし冷たい気がする。作り手は番組は彼らに寄り添う形をとりつつも、初めに矛盾、いささかの滑稽さを目の当たりにさせるのだから。

テレビ放映ならばこのシーンを見て、みるのをやめる人がいるのに違いない。

しかし、徐々に見続けていると彼はその矛盾を抱えているということに意識的だということが分かる。また、仕事のために車を運転する際、この生活は完全にプリミティヴではないことも認めている。それでも、できる限り自然に寄り添えるような生活することを目指している。内省的であある一方で現実的にこの暮らしを営んでいるのだ。

一方で、この暮らしを批判する人は、このドキュメンタリーがその人自身の今のライフスタイルの内省を促すようで批判するのではないかと思う。自分の生活を他人に指摘されるのは不愉快であろう。その反動で逆にこのドキュメンタリーの暮らしでの矛盾を批判し、白か黒かで(プリミティヴかそうでないかで)結論を下すのだ。

余談だがこの構図はよく日本におけるベジタリアン、ビーガン批判や環境問題に対して取り組む人に対しての批判でも見受けられる。(植物を殺しているでないか、といったような)環境のため、倫理のために自分のライフスタイルに内省的な人間をそうでない人が批判することはできない。


他の社会から"ドロップアウトして"生活するひととの違い

他の"ドロップアウト組"と比べて興味深いのは、彼らが子供のいる家族であるということだろう。そしてその子供が独立しかけている。幼稚園や小学校に通う小さい子供なら、意思を主張するのは難しいし、両親の生活に従うだろう。

しかし、この家庭から子供が育ち大人になっている。彼らも主張があるし、彼らの生活がある。実際末っ子の男の子の部屋には電気があるようだ。子供たちと両親でそれぞれ妥協点を探しながらも、おたがいの生活をリスペクトしている。そして生活として成り立っている。

最後に

また、「ドロップアウト」という表現を私は終始この記事で用いたが、その表現に徐々に疑問を覚えるほど彼らには社会的に豊かな結びつきがある。

例えば、彼らは最後のシーンで「春の祭り」と称して、ドイツに住むシリア人難民とともに料理をして一緒に春を祝う。これをドイツ人がどこか別の国に行ってその国の伝統行事である祭りに参加するのとでは大きな違いだ。彼らの祭りは伝統は何もないが、地域の絆を深め、本来の春の訪れを祝う祭りのような気がする。

このドキュメンタリーで、別の意味での豊かさを感じずにはいられない。

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