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子供の中に自分とは別の個を見て「尊重」の意味に気付いた。

「尊重」という言葉がある。

息子の保育園で「尊重する」とは何ですか?という宿題があった。今なら、この年齢にこの宿題は難しくない?と思うけど、当時はつい「分からせなければ」と力んでしまった。自分だって「尊重」なんてよく分かってなかったのに。

辞書で調べると、

「尊重」とは、尊いものとして重んずること。「他人の意見を尊重する」「人命尊重の精神」

うん・・・。じゃ、「尊い」とは?

「尊い」という言葉はもともと「崇高で近寄りがたい、神聖、高貴」「きわめて価値が高い、非常に貴重」といった意味。

じゃ、「重んずる」は?

(ねうちがあると見て)大切にし、うやまう。重きを置く。尊重する。
 「体面を重んずる」

「他人を尊重しましょう」というとき、「価値の高いものとして、大事に扱いましょう」ということだろうか。

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当時は息子に「相手の目をみて話すこと」「返事をすること」「嘘をつかないこと」「挨拶すること」などが「尊重」だと話した。

「相手を大事にすること」と捉えれば、礼儀も誠実さも「尊重」になるのだろう。でもこれは正しかったのだろうか?

正しかったとしてもその意味を、幼い息子が本当に理解したのかどうか疑問だった。

そして「尊重する」ってどういうことだろう?と考え続けていた。


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私はずっと、息子と上手くいかずに悩んでいた。

息子は12歳になってもママが大好きで、私もそれに応えたかった。でも上手く出来ずに、あれこれ試しては、傷に塩を塗る日々を過ごしていた。

そんなある日、「尊重とは、自分と相手の違いを認めること」という言葉が頭に浮かんだ。上手くいかなかったのは、私が「尊重する」ことを理解してなかったからじゃないだろうか。


私はずっと、息子に自分の理想を押し付けていた。それは自分が、自分の望む人生を生きていなかったからだと、今は思う。

大学を出て、就職して、海外に行って、国際結婚して、ブラジルに移住した。そこまでは自分の意思ではなく、導かれるように人生を辿った。理想を追い求めた訳でなくても、次から次へと立ち止まることはなかった。

異国の地で、母親の役割と安定した生活を得た私は、子育てと旦那の帰りを待つだけの生活に自分を押し込めてしまった。元々依存心が強く、人のせいにする性格だったからかもしれない。自分で自分の人生をどうすることも出来ないと思い込んでしまった。

そして自分に向けられなかった期待は、一心に息子へと注がれた。私は息子を見てはいなかった。見ていたのは理想の息子の姿だった。


「私は息子の言葉を聞こうとしなかった。」
「偏見と先入観で決め付けて、ダメ出しした。」

いつも息子の言葉を待たずに話した。自分が正しいと思い込み、息子の気持ちを聞こうともせず、むしろ教えなければと思っていた。


「自分の理想を基準に、思い通りにならないと息子のせいにした。」

様々な育児情報を鵜呑みにしては不安になり、それを押し付けた。「自慢の子に育てるため」「いいママの評価を得るため」「専業主婦の私に価値を与えるため」息子をコントロールしようとしていた。


でも結局、全部自分のためだった。


息子は自分のモノで、自分の代わりに欲しいものを手に入れてくれる存在だと勘違いしていた。

息子は頭も、運動神経も、ルックスもよかった(親ばか)。私にないものを全て持っているように見えた。それは、自分に期待するよりも息子に期待する方が、簡単に何かを得られるような気にさせた。

息子が思い通り動かないと、苛立ち、不安になった。胸が苦しくなり、怒りが込み上げた。そして焦った。全てがダメになったような、自分のせいだと言われているような気がした。


もしも私が、息子を「尊重」していたら?

私と息子は別物で、私の人生と息子の人生も別物だと、はっきり意識していたら?

息子は自分とは違う個体で、それは自分と同様、世界にただ一人の貴重な存在だと理解していたら?

「私」と「息子」は違う。そして「違っていい」と認識していたら?


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子育てが上手くいっていないとき、ちょっと立ち止まって、じっと子供を観察してみるといいと思う。そこには自分が産んだと思えない、違った思考回路を持つ別の生物がいるはず。

子供は思い通りにならない。子供には子供の意思があり、あなたとは違うアイデアを持っていて、違う方法で試そうとする。あなたに出来ることが出来なくて、イラつかせるかもしれないし、理解しがたい行動であなたを不安にさせるかもしれない。

そして同じように育てたはずなのに、兄弟の性格も好き嫌いも得意不得意も、異なることに気付くと思う。

自己中で、なんでも1番じゃないと気がすまない息子と、人の気持ちに敏感で、なんでも分けてあげる娘。おやつが大好きで野菜を食べない息子と、おやつも食べるけど、ご飯をもりもり食べる娘。何でもこなし、友達が大好きな息子と、絵やダンス、ごっこ遊びが好きな娘。コレクションが好きな割に執着しない息子と動物が大好きで離さない娘。

そして、親である自分とも違うことに気付く。心配性で友達を作るのが苦手な私。好き嫌いなく何でも食べる私。三日坊主で飽きっぽいのに熱中するとやめられない私。人前に出るのが苦手な癖に、歌が好きでみんなの前で歌いたい私。

そういえば「それじゃダメ」なんて、誰も私に言わなかった。

ダメだと言っていたのは、自分だった。

私は、心配性でもいいし、人間関係が苦手でもいいし、何を食べてもいいし、好きなことをしてもよかった。

自分は「尊重」されていたはずだった。それは「自由」でもあった。


息子と上手くいかなかったのは、私のせいだったと思う。


自分のために息子をコントロールしようとしていた。彼の自由を奪っていた。彼の意思を無視していた。自分は「自由」を求めていたのに。

息子は自分とは違う「個」である。自分には自分の考え、思い、好き嫌い、望み、やり方があって、

彼にも彼の考え、思い、好き嫌い、望み、やり方がある。


「私は、私の人生を、自分で作っていく。」
「息子は、彼の人生を、自分で作っていく。」
「みんな、それぞれの人生を、自分で作っていく。」


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ちなみに、娘には違う態度を取っていた。娘は頑固で「押し付け」が気に入らないと頑なに拒否を続け、何か言うとすぐに泣いた。手がつけられないほど号泣するので「私の思い」を言い聞かせる前に、私は黙った。娘は幼少の頃からずっと、そんな性格だった。

それに対して、私の説教が始まると息子は黙った。反応のない息子を見てはつい、同じことを何度も繰り返し言い聞かせた。返事がないと不安だった。


今更だけど、可哀想なことをしたと思っている。過去は取り戻せないけど、気付いたことで変えられると思うし、変わりたいと思った。

この経験を無駄にしないように、学びに変えたいと思う。




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