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眼相というもの -目は口ほどに物を言う-

相を観る

昔々のことだが、
手相・観相を勉強していたことがあった。
(というかそれを仕事にもしていたw)

10年ほど前はまだ手相や観相をみていたので
その頃に私にあったことがある人は”手を見せて”と
言われたことがある人もいるかもしれない。

あるときから手相やら観相以外のものをガンガン見ることに使うようになって手の相を鑑定で見ることは止めてしまったが、
今でも実は極々たま〜に見たりする。

もうお分かりかと思うが、
観相 = 顔のパーツとか色味、シワ、黒子等の様子・状態・形態のこと。
それらから伝わる情報を読み解くことを観相術といったりもするようだ。

簡単に言うと、
下唇が厚い人は”情に厚く・いろいろなものをもらえる相だ、とか、
上唇が厚い人は”与える”のが好きな人だ、とか言われたりするあれのこと。

三白眼といって芸能系の人に多い目はこんな感じで〜とか、
二重の人は優しくて、一重の人はシャープで障害の乗り越えていける〜といったところをはメジャーどころなので知っている人も多いだろう。
また、今では町の本屋さんのみならず、インターネットサイト等でもそれら情報にふれたりすることができるので、多くの人が一度や2度はセルフで?
見たりしたことがあるかもしれない。

目から伝わるもの

現場でたくさんの経験を積んで、すごく色々なものが読み解けるようになり、観相ベースで人を見ることも楽しくなってきて、その世界観に引き込まれていくのにはそう時間もかからなかった。
沢山の真実が顔・パーツ・手にはあり、それらが伝えるものと”上”が伝えるものにほとんど差がなかったというのもあるだろうが、”統計学”もなかなこもしろいな、とこの世で初めてレベルで納得するもの、真理の片割れに出会えたように感じた。
今思い起こせば、「手相とか観相の”正道”のみを極めていくのも面白いかな」と思ったこともあるような気がする。

ただ、どこらかというと「基本のキ?を離れて深掘りしまくっていくのが好き」な気質なこともあり、あるときから一般的な”手相・観相”という情報・見方を離れ、どんどん違うところにフォーカスを当てていった。

その過程の中で、
色々なものを深く(粘っこく!)観察したが、
最も個性が出る機関で突出して面白かったのは”目”だ。

人は目というレンズを通してこの世を見るが、
目という”世界を覗き見る穴”の性質・感度等によって、一般的に言うところの(眼科医が言うところのそれとはまた違う意味で)”近視・遠視・乱視”という見方とか視力とはまた別の意味でのシリョク、いや、認識領域としての視覚の差のようなものを持つと思う。(視座とか視野とかもいわれたりもするがあれにちかいかもしれない)

それは鑑定をすればするほどはっきりとわかってきて、
いわゆる”色盲”とは全く違う概念で、人により見えていること、
見え方がぜんぜん違う。
何かにフォーカスを当てて見えるか見えないかを試す”視力検査”とは違い、
視界に入るものの何にオートでフォーカスを当てにいくのか、という癖のようなものに近い気がするが、その”癖・視界特性”といったものが目の相には如実に現れる。

カメラの世界のレンズにもきっとその差があるように
自分と世界の間の距離が近い・中間・遠い、といった差があるともいえるし、すごく正確に物事を認識しようとする人もいれば、blurエフェクトみたいにぼんやりと認識したい or している人もいる。

そういうエフェクト・フィルタはphotoshopならいくらでもあるけれど、
そういうフィルタとかエフェクトをかけられたレンズは一人に一つ必ず搭載されていて(というか体の臓器だから(目)内蔵されている)、
その特性とか視覚領域がどういうものかは目を見ればわかる。
鑑定を重ねるごとにその形式特性が示すメンタリティ、世界観の差がわかってきたのだから、ますます”相”がもたらすものに惹かれていった。

その人の世界、その人だけの宇宙は
如実に”文字通りの意味で”目に浮かんでくるのだ。

セカイノミエカタ


これは世界の見え方に差がある。
ということなのだが、
それは生まれた時から決まっていて、
現場での臨床経験上、
その感度自体はきっと一生変わることはない。


またその特質の差は対象者の目を見ればだいたいわかるので、
引き出しが多い方であれば話し方や内容等を
”そのレンズにあったものに適宜”変えることもできるのではないかと思う。

You are what you see…


You are what you seeとも言う。
目や視覚情報から流入するものは
価値観の基本を作るものであり、
ひいてはその人の思想体系・行動パターン等をも
つくりあげていく。
目とは世界を見る覗き穴。
情報を取ってくる器官でもあり、自分はこうですよ!と世界に自分を開示するための世界と遊ぶため・触れあうためのインターフェイスでもある。
だから”目を知る”ことは雑学的に純粋に楽しいだけで無く、
社会でより良く活躍・活動していくことにもつながる。

例えば、
またレンズで例えるが、
超接写レンズでは大きな世界は見えないが、
ハイパーミクロな世界は得意だ。
また、逆に雄大な景色を取れるものはその逆に…といったふうに、
搭載レンズの特質が人の向き不向きといったものを作ったり、
思考のパターンの元となる。

基本的にはその世界観の中で作品、アート、文章、創作物、諸々を生み出したり、社会貢献、仕事につなげていくことになるので適材適所の差配につながりやすいとも思う。

当然すぎることだが、
精密処理が好きな人が高級機械時計の職人になった方が、
その逆の視界特性を持つがやるよりuserにも自分たちにも"よりフィットしている”ことは明白だろう。

また、逆にウォーリーを探せのプロみたいなひととか、間違い探しの達人とか、なんらかのエラーに気づきやすい人が、校正とか添削業務とかクオリティコントロールとかに携わった方がストレス無く仕事できそうだとは皆が思うところであろう。

目は覗き穴


ゴッホのひまわりを見ても、
その黄色に注目する人もいれば、
ひまわりの花弁を数える人もいて、
また、あの独特マチエールにフォーカスを当てる人もいる。

このように、みなが違う覗き穴から見ているのが
この世界というものなので、
各人の目が見ているところや世界というものの絵は、
あなたが見ているものとは実は相当異なるものかもしれない。

そういう前提にたってみるとこの世界はだいぶ捉え方が違ってくるだろうし、人にももっと優しくなれるかもしれない。
そして個々の世界の捉え方・見え方というのは”目”というインターフェイスを観ればわかる。

目は口ほどに物を言うと言われたりするが、
その実、目は口以上に雄弁多弁だ。

まだまだ目を観ていく術式は極められておらず、
まだ熟成への道の途中ではあるけれど、
目はその人の世界観全てを物語ると言えるのでは?
と常々、私は思っている。

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