過去を巡る旅

故あって自分の故郷を巡る旅をしている。

旅、と言うのは大げさで、電車で1時間くらいなんだけど、過去に私がいた場所におもむいて話を聞いて、話をして、自分の思春期を客観的に見つめ直す作業は、苦しい。

思い出す、途轍もないさびしさ。蘇る家庭の悪夢、自分の足で立てなかった頃、ぐらぐらしていて不安で認知が歪んでいた自分はそのまま自分の中にまだいるような気がして、泣きたくなってしまう。なんの解決もされないままなあなあになっているけど、すべての人生って地続きなので過去はなかったことにならない。
30年しか生きてないけど、30年も生きちゃった。いつだってふんわりとした孤独があるから足元がぐらついて、マークをつけないと生きていけないから引っ越したり転職したりする。私はそのマークを人に求められない。

母は、「あの頃、助けてあげられなくてごめん」と言う。「私の人生ってなんだったんだろう」とか、「でもあなたたちに出会えたことがいちばんの幸せ」とか言う。そんなの知ったこっちゃないよと思う。「お母さんは悪くないよ」なんて意味のないことを言う気にはならない、まったく、その通りだと思うし。
人生の幸せを子どもに託さないで、そんなのあまりにも勝手だから、私の知らないところで自分で勝手に幸せになって欲しい。

耐えきれない過去をやり直したい気持ちに駆られるけれど、過去の話ばかりする時は未来が見えないからで、今の私は突然やってきたなまなましい過去に未来を閉ざされているような気分でいる。そういえば私はずっと孤独だったし、寂しかったし、けれど寂しいまま多分生きていくんだな、その人生にいったいどうやって具体的な幸せを描けばいいんだろう?
そもそも、どうして傷を負わされた方の私が明るく元気に人生をリスタート! する努力をしなくてはならないんだろう? 希望を持って生きる努力、許す努力、過去のことを水に流す努力。してたまるかと思う。

こんな不毛を今の私がまた背負うのもやるせない、人生がもったいないから結局明るく元気に人生をリスタート! の方を選んでいるけれど、過去に触れるたびに憎悪は満ち満ちて、最後にどんな憎しみをぶつけてやろうかという、唯一の未来の希望に救われている。死ぬ間際に、もう取り戻せないときに、憎しみの言葉を聞くのはどんな気分だろう。それを考えると少しスッとして、いい気分になって生きていける。

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