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「『侵略国』を悪者にするのは簡単である。誤解を怖れずに言うと侵略国を「悪」とすることで、私は安心していないだろうか?」

はたして国際社会に正義はあるのか?これは国際政治学における古典的な問いです。

英国の国際政治学者へドリー・ブルは、各国により正義が異なることを強調する立場を「プルラリスト(pluralist)」、そして国際社会でも一定程度共有すべき価値を強調する立場を「ソリダリスト(solidarist)」と呼びました。

20世紀の国際社会は、1928年の不戦条約や、1945年の国連憲章、そして国際人道法など、国際社会で共有するべき価値や正義を強化する方向で動いてきました。例えば、「政策の延長としての戦争」を禁止する戦争違法化(個別的自衛権、集団的自衛権と、集団安全保障を除いて)などは、国際社会で広く共有される「正義」となりました。

ですので、国際社会で、共有すべき価値や正義が一切ないわけではないが、全てが共有されているわけではない。その意味で、solidarityとpluralismとの双方が存在する。時代によって、それが破壊される時代と、それが強化される時代がある。今はそれが破壊されている時代です。

とりわけ国際社会において守るべき最も重要な規範である、戦争の違法化が、根本から破壊される可能性がある。それは、国際法上の合法性を担保する努力をほとんどしていないロシアのウクライナ侵略によって引き起こされています。

もちろん冷戦後の米国によるコソボ戦争やアフガニスタン戦争、イラク戦争も、国際法上の合法性に疑義があるものでした。ただし、コソボ戦争は国際人道法上の要請、アフガニスタン戦争は個別的自衛権の拡大解釈、イラク戦争は国連安保理のロシアを含めたいくつかの決議を根拠にし、評価は分かれます。

ともあれ、そのような国際社会でまもるべき根幹の価値があり、共有された一定の正義がある。そのような価値に疑問を抱くことは良いが、それをこのタイミングで、ロシアが最も根幹となる国際社会の規範や正義を損なっている中で、そこにも一定の「正義」があることを考えるよう促すということに、疑問を感じます。

なぜならば、そのような国際社会で幅広く共有されてきた規範やルールに対する疑念が強まっていけば、当然ながら秩序が崩れていくからです。秩序なんてなくて良いという立場に立つならば結構ですが、そもそも河瀬監督は「戦争は良くない」という共有された正義に基づいて議論を組み立てているのではないでしょうか。懐疑主義が知的に重要な営みであるならば、「戦争は良くない」という考えそれ自体も疑うべき。戦争が溢れる世界。

もしも大学生にとって、知的な懐疑主義が推奨すべきことであるならば、すなわち憲法9条に基づく平和主義も疑うべきではないか。非核三原則も疑うべきではないか。憲法で保障された人権や、法の支配も疑うべきではないか。民主主義についても疑うべきではないか。男女平等という原理も疑うべきではないか。

もしも、あらゆる正義は、ある特定の立場からのものでしかない(プルラリズム的思考)と仮定するのであれば、またそれぞれの国がそれぞれの正義があるとすれば、それぞれの正義が衝突してホッブズが述べるところの「万人の万人に対する闘争」が自然状態となるかもしれない。それを回避するために国際的な合意を蓄積してきたのが、2度の世界大戦を経験した20世紀以降の歴史だったはずです。

国際社会として、相対主義、あるいは知的懐疑主義を超えて共有すべき普遍的な価値は存在しないのだろうか。もしも知的な懐疑主義を推奨するのであれば、憲法9条を疑うことや、非核三原則を疑うことや、平和主義を疑うことや、人権や男女平等を疑うことも必要ということも、推奨するべきです。知的懐疑主義で、疑って良い「正義」と、疑ってはいけない「正義」とは、誰が、どのように線引きするのか、という問題さえ生じます。

ある正義については疑う必要があるけれども、ある正義は疑ってはいけないというのは、ダブルスタンダートであり、正義論としては十分ではない。それは自らが信じる特定の正義を絶対視し、それ以外の正義を相対視しようとする都合主義でしかない。それこそが、われわれが避けるべきことではないのだろうか。

私の主張は単純です。ある特定の社会の正義は、秩序を維持するために共有するべきだが、それ以外について多様な考えを持つべき。

国際社会において、「戦争の違法化」という共有され規範を擁護すべき。それに対して、核兵器を持つ大国は小国を侵略する権利があると正当化する正義を擁護してはいけない。そのような普遍的価値や国際的正義は、恣意的に個人や一国が主張するべきものではなく、国際社会でゆるやかに合意されたものではなければならない。例えば、国連特別総会で採択されたロシアによるウクライナへの侵略に対する非難決議や、いくつかの成文化された国際人道法、戦時国際法のように。そのような、幅広く受け入れられ明文化された合意と、ロシア一国が声高に自己主張する「正義」とでは重みが異なるはず。その「重み」というものが、はたしてどれだけ理解されていたのだろうか。

だから、「あらゆるものを疑ってかかるべき」という、大学生に必要な懐疑主義、相対主義に一定の理解と共感を示しますが、その例示ととして、ロシアとウクライナの関係、また現在のウクライナ戦争を用いたことは、適切ではなかったと感じています。国際社会の平和と安定の根幹に関わる問題なので、国際政治学者としての違和感を抱きました。それを個人の次元での一般論に止めるべきでした。ウクライナ戦争や、そこにおけるロシアとウクライナの正義の衝突の話につなげるべきではなかった、と感じます。それ以外の祝辞の内容は素晴らしいものであったので、少し残念です。

国際社会には、ソリダリズム的な発想から擁護すべき一定の普遍的な価値と、それぞれの主権国家により異なる正義、異なる価値と、その双方が存在する。それを国際政治学者の高坂正堯教授は、「世界はひとつでもなく、百数十でもなく、数個でもないが、しかし、ひとつでもあり、百数十でもあり、数個でもある」という的確な言葉で表現しました。「ひとつ」の正義(普遍的正義)と、「百数十」の正義(主権国家の正義)。この双方があるということを前提にした場合に、私は「戦争の違法化」は国際社会で共有すべき正義と考えており、また国連総会決議で国際社会がロシアの侵略を非難している以上、すでにそれは国際社会でゆるやかに受け入れられた「正義」というべきなのだろうと思います。国連総会決議と、ブチャの虐殺の後で、ウクライナ戦争における正義の相対化を示唆することは、あまりにもタイミングが悪いと思う。

それはこれまでの国際政治学者としての仕事の根幹に関わるからです。詳しくは拙著『国際秩序』で冷戦後の「ソリダリズム」と「プルラリズム」の動きとして論じているので、より詳しく知りたいという方でお読みになっていない方は、ご覧頂けると幸いです。このツイートだけではうまく伝わらないので。


最後に。

「侵略者」を悪者にするのは簡単である。誤解を怖れずに言うと侵略者を「悪」とすることで、私は安心していないだろうか?

「戦争」を悪者にするのは簡単である。誤解を怖れずに言うと戦争を「悪」とすることで、私は安心していないだろうか?

「核兵器」を悪者にするのは簡単である。誤解を怖れずに言うと核兵器を「悪」とすることで、私は安心していないだろうか?

ある考えを「正義」と固定するのはよくない?自分の頭で考えて、侵略を正義と考えること、核兵器を正義と考えること、戦争を正義と考えることも必要?

ようこそ、戦争があたりまえとなり、核開発競争が進み、日本の国土が核ミサイルで廃墟となり、「戦争違法化」という規範が完全に破壊された新しいディストピアの世界へ!

ご参考までに。1930年代後半にイギリス国内で、ヴェルサイユ条約で過剰に苛酷な条件をドイツに強制したことに対してヒトラーが反発したことに同情をして、ヒトラーの主張にも一定の真理があると、その主張や行動を擁護する意見も少なからず存在しました。そして、ドイツに対して厳しい制裁をすることには、反発する声が少なからずありました。これを、イギリス政治外交史の専門家として記しておきます。国際連盟規約という国際法に背いても、戦争を回避するためにドイツに同情し、譲歩をするべきだという意見が勝り、1938年9月のミュンヘン会談ではチェンバレン首相がそれを実践しました(詳しくは、Wedge2022年5月号をどうぞ)。もちろん、戦争はより大きな規模で、より悲惨な結果として到来します。

歴史は繰り返すのかもしれない。

(備考: タイトルの「侵略者」を「侵略国」として、また、「」を加えました。)

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