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月ノさんのノートを勝手に読んだ感想

 先日重版決定したにじさんじ所属公式バーチャルライバー月ノ美兎委員長初のエッセイ『月ノさんのノート』の感想を、どこかに書いて残しておきたいなと思った。というのも私はこのnoteと紐ついているTwitterアカウントでは基本的に絵を乗せるかバカニュースをリツイートするくらいで、所謂オタクの『推し語り』をすることがない。

 140字程度で何かを語れるとは思っておらず、メモ帳のスクリーンショット4枚を貼り付けてメディア欄を圧迫するつもりもなく、かといってレビューサイトで推しの自著に評価を付けるなど滅相もないことだ。ただ、流れてきた情報によれば委員長本人も感想があると嬉しそうなので、相互干渉ウェルカムということなのだろう。せっかく書くのだから私も、この文が関係者の目に触れても問題なさそうな程度には整えて気取った文にはしようと思う。

本編という名の販促

 感想を書く前に、まず購入を迷っているような月ノ美兎リスナーがいるとすれば今すぐ買っておくといい。できるなら電子版でなく紙で。例えばAmazonで特典イラストもついて1430円。オタクくんオタクちゃんの大好きなソシャゲで15連ガチャ(単発100円)を引いてSNSに爆死画像を貼り付ける以上の価値は十分にある。ちょっと比較対象としては失礼だが。

 紙で買え、というのはこれはエッセイ以前に委員長の忘れていったノートであり、それを表現するための素晴らしい書影が一番映えるのは間違いなく紙媒体だ(とはいえ電子版を私は買っていないので比較評価はできない)。

 編集さんが目次を上げていらっしゃるのでそれを見て考えてもいいかもしれない。『あとがき』開始が105ページ目である。普段文章をあまり読まない人にとってはありがたいはずだ。あくまでもノートなので横書きで、もちろんラクガキが書いてあったりする。そういった点では一般的な随筆とは異なる、だいぶやわらかい雰囲気である。

 ここで購入予定者は『この本の執筆者は我らが委員長だ』ということを忘れてはならない。あの人が小難しい話を何百ページと書くわけがないし、そんな彼女が山奥の旅館にカンヅメにされ襖一枚隔てた先にマネージャーの監視を受けながら〆切に追われて捻り出した本である。実際に読んでみると「ちょっとズルしようとしてない?」と思わせるような露骨な改行があったり感嘆符が十個単位でコピペしてあったりする。この時点でゴーストライターの線は消えたと思っていい。そういう意味では漫画家や評論家の書く名文名著を期待されても困る。いや、名著にはなりうるかもしれないが、文字を追ってみれば配信のあの声が聞こえてくるような、あくまでも委員長が書いた文章だ。月ノ美兎の書く文章がどんなものかというのが知りたければ、委員長のnoteを読んでみるといいだろう。

 この『月ノさんのノート』に書かれた内容もこれと大きくは変わらない。委員長の考えたことや体験したこと、配信の裏話などがユーモアを交えて書いてある。読了後はさながら長めの雑談配信を聞き終わった時のような気持ちになれた。月ノ美兎リスナーならば買って読んで損はないぞ、というのはそういう思いである。

 もちろん、もし月ノ美兎の配信はあまり見ていない人であるとか、VTuberを良く知らないが名前は聞いたことがあるから読んでみようという人が買っても楽しめるだろうと思う。何の前提条件無く読んだとしてもネットで有名人になってしまった弁の立つ女の子の自分語りを聞くのは、おそらく楽しい。委員長は発売前の配信の中で「雑談配信には使えないような暗い話を書いた」「書籍なら炎上しないと思う」なんてことを言ってはいたものの、生粋のエンターテイナーであるところの彼女はそんなような話を面白く語れる技術を持っている。少なくとも読み終わってマイナスな気分になったりするようなことはなかった。文を追ってみると『にじさんじのヤベー奴』と呼ばれてきたクソザコムカデは意外に冷静に物事を見ていることが分かる。逆に「VTuber業界の暗い裏側を見たい」といった気持ちで買っても、お望みのものは見つからないだろう。それから『月ノ美兎のVTuber論』だとか、『VTuberとして物申す!』だとか、そんな大きな表題を扱った本ではない。

ちょっと知りたいあの子の心のうち…

 表紙に付いた巨大なオビに載っている通り、このエッセイでちょっとだけ知れるのはあくまで月ノ美兎の心の内側である。月ノ美兎が「これがバーチャルユーチューバーなんだよなぁ」と言ったときの『これ』とは自分の顔を映すカメラを切ってもゲームを続行しようとしたカメラの外側の「わたくし」であって決してVTuberの定義を捉え直そうとしたわけではないように、月ノ美兎はノートの中でも普段の配信でも「わたくしはこう思った」「わたくしにこんなことが起こった」ときちんとした主語を使って答えている。月ノ美兎が『月ノ美兎』として活動を始める前後に起こったり考えたりしたことについて、自分の中だけに留めておくような些細な物事を自分の言葉で我々に伝えている。このスタンスは普段の配信でも変わっていないように感じるから、我々はドキドキしながらも安心してページをめくることができる。

 委員長いわく「印税は全額わたくし」らしいので、もしかしたら夢のバーチャルアイドルに加えて夢の印税生活も叶えてしまう可能性も否定できない。そして、もしそれが叶ったらきっと委員長は何か面白いことを体験しに行っては私たちに『お裾分け』してくれる気がする。私はこの本を読んだ後に「勝手に期待をしてもいいよ」と言ってもらえたような気持ちになった。まだ本を買って読んでいないという人に語れる感想は、こんなところだろうか。

おまけ:本を買って読んだ人に語る感想

 本題は終わったので残りは余談なのだが、私は本を読むということが苦手である。映画を見るのも得意ではない。この症状は中学を卒業した辺りから徐々に発症し始めたもので、小学生の時分なんかは図書館に入り浸っていたし、現在も文字を読むことや書くことは苦手ではない。なかなか入り組んだ愛憎模様なので他人に伝えづらいのだが、作者の思想や演出意図が文章や脚本からチラつく予感を、手に取る前に感じ取ってしまう「食わず嫌い」のようなものだと思う。正直に言って悪癖だ。

 例えば物語を読むとするなら何かしら事件が起こる。起こらなければならない。でないと物語は始まらない。そこに主人公たちが巻き込まれる。巻き込まれないと話は進まないし、その後には大抵の場合挫折や苦難が待ち構えている。それを打ち破ることが物語の大目的であり、続編を後から作ろうとすればハッピーエンドを迎えたはずの登場人物たちは再び苦難に見舞われる。どうしても私は登場人物に寄り添うつもりで物語に入るため、彼らが作劇の都合で不幸に襲われると悲しくなってしまう。悪役が出てくるとする。主人公は悪役の主義主張に立ち向かい、新たな価値観を提示する。結論としてそれが著者の「言いたかったこと」であったりするわけだ。随筆・エッセーの類というのはそれをもっと露骨にしたようなもので、作者の思想が数百ページ分の補強材料によって理論武装されたのち最終章と後書きで満を持して提示される。失礼な話、私はそこまでされて聞きたいと思えるほど他人の頭の中に興味を示したことがない。勿論今述べたこれらは私の偏見である。反対意見は山ほどあるだろう。

 どうも国語の授業で「作者の気持ちを考えましょう」の練習をやりすぎたらしい。必要以上に深読みしてしまってエンターテインメントを楽しめなかったり、自分と異なる価値観を『こいつの中では正しいんだろうな』で片付けられなかったりするのは私の人間性の幼さである。こんな性格だから友達もうまく作れやしないし、応援している月ノ美兎委員長が本を出したと聞いても一瞬躊躇った。その原因の一端を委員長にも押し付けるが、彼女が配信で「言えない暗い話も書いた」なんて言ったものだから本を書いた当時の月ノ美兎が言いたくても言えなかったような何かしらを突き付けられるのだろうかと身構えたのだ。エッセイの中に落とし込まれた思想を危惧した。結果としては前半で述べた通りだ。私は委員長がエンターテイナーであるということを信じ切れていなかったという話である。

 ああ面白かった、とノートを閉じた私は同時にメロスに頬を殴られるのを乞うセリヌンティウスのような気持ちでいた。私の中にある『作者はある意味で自己中心的に語りたいテーマを語るために文を紡いでおり、読者はそれを汲み取りに行くべき』という読書に対するあり方、創作物に対する考え方を見つめ直した。「この人はこんな事を伝えたかったのかな」と正誤の定まらないような類推をして分かったつもりになるよりも、もっと気楽に「おもしろい」「こわかった」と文章から感じたままを素直に受け取ったほうが誠実なのではないか、と。

ちょっと知りたいあの子の心のうち…

 こんな煽りをうけて、普段は「だれがどう思ってようと知るかい!」なんて恰好付けている私がエッセイなんていうものを手に取っただなんて。これはこれからの私の活動スタンスにも関わる大問題だ。私は購入確定ボタンをクリックした瞬間、『委員長が本を出したから買った』のか『委員長の思考を推し量ろうとして買った』のか、どっちだったのだろう。正解は間違いなく両方だ。どちらの比重を大きくするか、の問題である。『本』というワードを『言葉』とか『行動』『配信』に置き換えてもいい。誰かの言葉や配信を見聞きして、これからの私はどうするべきか。「他人の気持ち」という正解のない不確かな存在を、そこから探り出そうとすることは果たして健全なのだろうか。

 私が委員長のこの忘れ物のノートを読んで「月ノ美兎はこういう人で、こういう考え方を持っているんだな」などと類推することは傲慢な思想だ。これが行き過ぎて勝手なイメージを他人に決めつけたり、押し付けたりすることはあってはならない。ただ、月ノ美兎本人が本の中でこんな感情を「悪いこととは思わない」と書いてくれたことに救われた。文章を、文字通り『深読み』してしまう。これは一方通行で気持ちの悪いオタクの妄想と理想でしかないが、そんなオタクの解釈を万が一本人が目にして気味悪がらず「好いてくれたが故なんだな」とニヤッと笑って貰えるのならばファンとしてこれ以上の幸せはない。批評や批判、感想を世に出す行為は特にこのSNS全盛の時代に大きな責任を伴って然るべき行動である。表現者への敬意と「この辺までだったら許してくれるだろう」という信頼が無ければ自分勝手な文章に成り下がってしまう。以上を踏まえて私は、委員長の初の単著を読んで何を読み取ったか考える。

 『月ノさんのノート』というエッセイは、各章ごとに話題も文体もがらりと変わるようなとりとめのない文章の集まりである。一貫したテーマがあるようには思えない。たとえ掘り下げたところで「脚本の人、そこまで考えていないと思うよ」と誰かに言われてもおかしくないような、好き勝手やっているページはあちらこちらにある。手書き文字風フォント使ったの表紙と最初の項だけやないかーい。事実私だって上の方で『山奥の旅館にカンヅメにされ襖一枚隔てた先にマネージャーの監視を受けながら〆切に追われて捻り出した文章』だと書いている。あの文章を書いたときの委員長は旅館で呼べるコンパニオンの事で頭がいっぱいだったのかもしれない。

 ただ、委員長は後書きで自身の執筆活動を振り返って「糸を1本1本ほどいていくように順序立てて」少しの演出を混ぜながら「大切なところを掬い取って」このノートに記したと語っていた。だとしたら読者である私は「おもしろかった」以上の何かをここから読み取れるはずなのである。少し深読みをしてみようと思う。どうして月ノ美兎委員長は本を書いたのだろう。ユリイカの「バーチャルYouTuber特集」に寄稿した時は、あの人は〆切直前になってもコラムの文章が書けずに4コマ漫画を提出していた。次にnoteで彼女の書いた文を読んだときには驚いたものである。書けるじゃねーか。

 委員長は映画研究部で映画を撮ることになっても自分で映像を見返せなかったり、服を選ぶのが苦手だったり、自意識過剰と自己分析をしている。誰かに読まれる文章を書くというのは自意識との葛藤だ。私だってもしこの文章を誰かに読み上げられたら恥ずかしい。ではnoteに文章を上げてやろうと思ったり、この『月ノさんのノート』をカンヅメにされて文豪モードになったとはいえ一泊二日でほぼほぼ仕上げることができたのは? このノートは落とし物である。それを好奇心に駆られて読んでしまった読者は、委員長に胸倉つかまれて脅されるだろうか。読まれたことにショックを受けた清楚な委員長は泣きだしてしまうかもしれない。「……見ちゃったんだ」とカバー裏の月ノ美兎は意味深に笑っている。果たして次に怒声が来るかと問えば、おそらく答えは否だ。そもそもこのノートのあれやこれやは「わたくし自身とあなたに向けて」書かれている。いつかの配信で委員長はこんな事を言っていた。

「わたくしの本を買ってやろうというような人は、わたくしのファンだと思うから」

 自分が配信で必要以上に自身のパーソナルな話題を出してしまうことに対して「あんまりよくないことだと思うんだけれど」と前置きしたうえで「面白かったならそれも正解」と語っていた彼女は、配信以上に言葉を選べるであろう文章上でわざわざ更に個人的な、自分だけしか知らない思い出を披露してくれている。「これはわたくしが○○したときの話なんですけど…」と普段から面白エピソードをお裾分けしてくれている委員長が、わざわざお金を払ってノートを拾いに行った私たちに向けて演出込みで聞かせてくれた”とっておき”のネタの詰め合わせである。どうして話してくれたのか。私はその理由をファンサービスをしてくれたのだと解釈した。

 友達のウケ狙いでVTuber事務所に入って、同僚の樋口楓さん曰く「みんなを楽しませたがり屋」であるところの月ノ美兎委員長が本を書くという機会を得た時に何を考えたのか。例えば、もし今の委員長に3年前のユリイカのような色々な層の読者に向けて『VTuber月ノ美兎』が書いた本を出してくれ、と執筆依頼があったとしたら。これは私の勝手な想像であるのだけれども、委員長は相当苦労すると思う。この本で書かれたような病院に行った話とか初イベントでの運営のゴタゴタを、たとえ面白く書く能力があっても決してその本には書かないだろう。普段の配信よりも更に手前にラインを引いて、それこそ4コマ漫画でウケを取りに行くかもしれない。そういう意味では、前項で私は『月ノさんのノート』を月ノ美兎をよく知らない者が読んでも楽しめるだろうと販促したが、ファンアイテムだと言ってしまってもいい。『月ノ美兎』と名前の書いてある落とし物をわざわざ拾って届け出ずに、中身に興味を示して読んでしまう「わたくし以外のあなた」というのは『月ノ美兎の事を知ろうとした』=『月ノ美兎の事が好きな』そういう人達である。

 『月ノさんのノート』の月ノ美兎ファンからの評価が高いのは、委員長のファンサービスが確かに届いているからだと思っている。決して『推しがグッズ出したから買っとけ』だけに収まらずこの本を誰か他のリスナーにも薦めたくなってしまうのは「この本、委員長がオレらの事考えながら書いてくれたんだぜ」という優越感を抱かせてくれるからだ。そんな気がしている。これはライブでアイドルが目線をくれたり投げキッスの宛先が自分だと錯覚するようなファン心理でもあるが、それと同様に私の抱いた感想文--というより『月ノさんのノート』を読んで膨らませた妄想が願わくば的外れなものでありませんように。気のせいだった、では少し寂しい。

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