感傷オタクとエモと百合① 百合関係論/気象観測所としてのオタク

これからそういう話をします。超重要なので全人類によく効きます。

先日、Twitterの方でこんな怪文書が生成されました。

うわっ⋯⋯これは見るからに暴論です。一見して、女女に挿まろうとする男(長いので以後「嫐」)への殺意の対象が作品内の嫐キャラだけに向けられるものであるかのような不当な前提を敷いており危うい議論ですね。近寄りたくない。一応免罪符を示しておくと、これは怪文書によくある無RT反応というやつで、エアリプではなく対象不在の言及、シャドーボクシングです。建前上、対象が存在しないので何を言ってもいい。

まあ嫐の是非については考察の取っ掛かりにすぎないので正直どうでもよくて、問題はこれらのツイートに現れる用語の解釈です。怪文書用語は非常に示唆に富んでおり、これから数回の投稿に亘って解釈を進めていきます。

なお、怪文書の関心は個々の作品の分析にはなく、一貫して「百合とは何であるか」「百合を摂取するときに何が起きているのか」を分析することに存します(なぜなら百合オタクであり、しかも百合オタクオタクなので)。箱から取り出してすぐに使える作品分析の道具を探している方には、これからの議論は周りくどく聞こえるかもしれません。

描写は常に不足する

百合とは何であるかを理解するために、まずは「気象」という概念から取り掛かるのが適切でしょう。一定の条件のもとでは、任意の気象は百合であるとまで怪文書は言い切っています。

気象。このウ゚ワ゚ついた物言いは何なのでしょうか? 喧嘩を売っているのか?

一見したところでは、「気象」は単純に「描写」に置き換えられるのではないか、という感覚ですが、よく考えるとそういうわけにもいかないことが分かります。「女が女のことを常に姓+名で呼び捨てする」というのは、ある種の抽象的な関係性です。関係性はそれ自体としては描写不可能です。なぜなら描写は有限であり、関係性に対して常に不足しているからです。

われわれ百合オタクは、いくつかの限られた描写から、ある超越論的な仕方で女女の関係性を了解するわけですが、われわれが真に問題にしているのはこの関係性の方なのです。相手に対して常にそのようにする習慣、というのは最も永遠に近い部類の関係づけですが、そこまで行かずとも、そもそも関係や関係性というもの自体、われわれには直接観測が不可能なものであるということを、この先でわれわれは認めることになります。

関係と関係性の差異

では、そも「関係」とは何でしょうか。「友達」「恋人」「主従」「先輩後輩」「上司部下」⋯⋯さまざまな名前のついた関係がある一方で、一言では表現できない複雑な関係もあります。エ̇モ̇い̇のはどちらでしょうか? これは疑いようもなく後者です。

このエモさはどこから来ると思いますか? いったい何が一言では表現できないというのでしょうか。

関係性警察のためにも断っておきますが、筆者は「関係性」と「関係」が置き換え可能であるというアイデアには勃ちません。「関係する」とは言えますが「関係性する」とは言えませんし、「友達という関係」に対して「友達という関係性」には何か重要な含みがあるように思えます。

したがってここで定義しておきます。関係性とは、ふたりの間の関係だけではなく、そのような関係を可能にする力学としての、一言では言い表せない「結ぼれ」を含んだ、一歩進んだところにある包括的概念です。

https://kotobank.jp/word/結ぼれる-641743
[動ラ下一][文]むすぼ・る[ラ下二]
1 結ばれて解けにくくなる。
2 水分などが凝固・凝結する。
3 心にわだかまる。
4 関係をつくる。縁故になる。
https://kotobank.jp/word/結ぼれ-394248
〔動詞「結ぼれる」の連用形から〕
心が憂鬱になること。

わかりましたか!? 女女が結ばれて解けにくくなり心が憂鬱に⋯⋯自律において女が女のことをフルネームで呼び捨てするなどというアレは、単なる関係を超えて、その⋯⋯⋯⋯「苗̵̳͕̃̀字̶̨̥͛̈́に̴͕̐さ̸̼̳̔̾ͅん̵̻̤͝付̵͉̔け̶͇̹̰̇͌͛す̴̞͂́̽る̵͔̩͍̎̑̋の̵̨̬̃は̶͍̲̲̃̇余̷̧̐所̷̩̓余̴̢̨͋͝所̷̲̻̺̈́し̴̖̉̂̇い̴̼̋し̸͈̙̖̃͝呼̷̣́̒̚び̷̨̂̈̽捨̶̙̭̔͗͝て̸̲͋͆̕は̵͓̬͗́な̶̢͈͐ん̴̙̗̅̆̔か̴̣̹̋͝ぶ̷̧͎͕̑͒っ̷͎̻̚͜き̷̗̲͛ら̵͓̭̉͘ぼ̵̼͑̓う̴̣̔̚感̶̨̫̄̽̋出̴̦̭̀̽ち̷̞̉ゃ̸͉̍̏͗っ̸͖̝̦̊͑て̵̨̧̌̚͜イ̷̨͙̥͛͠ヤ̵͙͖̳̊、̸̦͚͈̌け̸̩́̌͠ど̸̢͎̳̽̊͘下̸̥͎͚͋͝͠の̷͎̎́̚名̷̥͇͆前̸͕̤͝で̴̝̱͕̾̉呼̸̬̬́ぶ̸̠́の̶̼̙͚̏̄́は̵̧̼͎̋̍恥̵̢̹̠̇̋͗ず̴̨͕͛̚か̴̨̝͓̇̃し̴̝́̆̒く̶̭̐て̴̹̊̆ム̷̻̰̋リ̴̩̞̭̈́、̷̧̏͆̅か̶̡̛̩̹と̷̥̪̅̃͝い̸̫̝̇̿っ̶̼̎͒̚て̴̟̫̙͛さ̷̻̜́͗も̶̛͎͔̒親̷̪̂̑̿し̶̫̬̏̈́͝げ̷͓̅に̴͕̑̊͆あ̶̫͍͔̀̀だ̷̞̙̬̋̽̓名̸̪̳̈́̚で̷̧̦̓̒͝呼̶̨̮̒͘ͅん̵̞́で̷̝͚̌̅̑あ̸̞͇͈͗͋げ̶̨͗る̷̪̉の̷̡̻̦̂͆は̷̬̬̎͊̕自̷̠̦͋̾̾ͅ分̵̨̝̊̊̌的̵͙̑͌͘に̴̻̭͎͠ナ̷̬̺͑̓̌シ̴͇̒́͝」といったような(最悪最悪最悪)。そういう事情なんですよ自意識の。じかに描かれてはならない何かなんすよね。自意識の機微がそのまま明確に言葉で書かれてしまったら最悪じゃないですか。

今出てきた「最悪」という用語については今回の本題からは外れるので外述(別の機会に解説)します。

「尊い」ということ

こういった女女の自意識事情は、女女が自分たちを特有の仕方で関係づけるための潜在的な動因として働きます。それはふたりの関係のあり方を特徴づけ、百合描写に強度を与えるものです。ここでいう強度とは、すなわち尊みのことです。

まずもって自意識の存在は非常に重要です。例えば、A×B というCP関係があったとします。これだけなら純粋に形式上の関係であり、A×B と表記した以上、それは左から右への一方的な事態の可能性しか意味しない記号化です。しかしながらリバの概念が可能なように、実際には、われわれはこういった関係づけが決定論的なものではないことを知っています。このような女女関係の多態性を可能にする条件が、女女の自意識です。

われわれ百合オタクがふたりの関係を以て尊しとするとき、描写から関係性へ、振る舞いから結ぼれへと、われわれはいともたやすく超越をはかります。女女は軽率にイチャイチャしていてほしい。しかし「していてほしい」とはどういうことでしょうか? 本当にイチャイチャさせるのは誰なのでしょうか? もちろん女女が、自分たちを、お互いに対してそうさせるのです。作者や鑑賞者が彼女らにイチャイチャさせているのではありません。主体はあくまで女女でなければなりません。

主体性は自由意志の条件です。自由意志のもとでは決定論はなりをひそめ、ふたりの間に「今はこうなっているけれど、これから先、あるいはここではないどこかにおいて、何が起こるかはわからない」という非自明な関係性が浮かび上がります。このような状況にあって初めてわれわれは彼女らの現在の関係を消費することが可能となります。今ふたりが一緒にいるのは、かならずしも外的必然によるものではない。それならば彼女らの裡にうごめく自意識とは? この問いかけこそ、われわれが「尊い」と形容する感傷の源泉となっているのです。

百合関係における不確定性

しかしながらオタクの観照するこのような女女の自意識は、作品に投射される一方で、直接描写されることは決してありません。ここでいう「観照する」とは、何らかの付帯事情が存在するものと仮定して対象を取り扱う、といった意味合いです(平たく言えば「妄想」や「分析」のこと)。この不可能性は、先ほど「描写は有限であり、関係性に対して常に不足している」と述べたのと同じ意味です。

いくらオタクが観照しようとも、女女の自意識は描かれないことをやめない。それが関係への欲望として働くやいなや、個々の振る舞いや言葉に姿を変えてしまう。本当のところはどうであったのかを保証してくれる主体はどこにもいません。ここでもし「作者がいるではないか」と考える人があれば、その人は考えうる限り最悪の悪魔崇拝者であり、解釈を真理とそれ以外とに二分しようとする男根崇拝者です。そのような思想を採用するならば、その人は作品を健全な仕方で消費することはできなくなるはずです(この件についても外述)。

名前のついた関係というのは、最も分かりやすいかたちでの自意識と言うことができます。そういった関係もまた、ある種の付帯事情であり、それ自体として描かれることは不可能です。関係とは不思議なもので、たとえ彼女らが言葉によって自分たちの関係を確認しあったとしても、「友達である」といった何らかの実態がそれに伴っているとは限りません。むしろ「私たち、友達だよ」と言葉で確認することにはそこはかとなく逆説的な響きがあり、ややもすれば彼女らが友達であることの不可能性を際立たせてしまうようにさえ思えます。それは単に友達であることよりも「深い」部分における関係ですが、一方で「(何かを手伝ってあげて)こんなの当たり前だよ、友達なんだから」といったような、言うなれば関係の背景化の方が、明示的にそれを確認しあうよりもまだ確かにふたりをその名のもとへと関係せしめる、という事実もまた、われわれの理解を大いに助けることでしょう。

したがって付帯事情は、それを前提としたうえで、あくまでもそれ以外のことについての描写が積み重ねられることによってのみ、縁取りされるようなかたちで間接的に示される限りのものです。この意味で、付帯事情とは作品に開けられた穴であり、作品の外へと繋がっているところなのです。「間接的に示される」と言いましたが、実質これは、オタクの観照によって外から与えられるということです。例えば「登場人物相関図」というものがあります。これはキャラクター同士の関係、すなわち作品には現れえない抽象的な付帯事情を直接に書き表すことのできるすぐれた道具立てですが、やはり作品の外にある構成物です。作品は事態の表現の集まりであり、相関図は関係の表現の集まりであると言えますが、女女の関係が表現できたからといって、その関係性を完全に規定できるわけではありません。あらゆる表現は常に剰余を残しているものなのです。

このように、何らかのかたちで表現された部分から常にはみ出している不確定な部分を指して、われわれは関係性と呼んでいるということです。

気象観測所としてのオタク

ここまでで、関係や関係性が直接には観測できないものであることを確認しました。それでは、実際にわれわれが作品鑑賞において観測しているのは何なのでしょうか?

その答えがまさに「気象」となります。

作品に直接に現れているのは事態です。そして百合オタクは、描写された事態から観照された女女の関係性を作品世界のなかに投射します。この過程はまさにわれわれに作品鑑賞を可能にしている無意識的で超越論的な仕組みであり、作品内の描写と、みずからの観照した関係性とは、あたかもその結びつきが自明であるかのように、混然一体の強度となってわれわれの精神を打ちのめします。単なる描写でもなく、そこから匂い立つ関係性でもなく、そのふたつが観照者にとって分かちがたく結ぼれていること。この天と地の間にある一体性の部分こそが気象の一つの本質です。

気象にはもう一つ重要な性質があります。いちど観照された女女の関係性は、それが潜在的な動因であるがゆえに、それに何らかのかたちで準拠し、またときとして干渉するような、無数の異なった事態の妄想的な実現可能性を示唆します。女女関係の多態性とはこのことです。ある意味でこれは、先に述べた観照とは逆の過程ですが、この二つは観照の表と裏、同一の過程の別の側面です。明け透けに例えれば、描写されたレズセから観照される肉体関係が、いくつものまだ見ぬレズセを観照する、といった具合に。このように観照される無数の事態を含めて「気象」なのです。分かりやすさのために単純な例を出しましたが、実際の気象から観照される事態は、さらなる観照を⋯⋯それは⋯⋯事態というにはあまりに⋯⋯、いや⋯⋯、この辺でやめておきましょう。身が持たない。

ともかく、描写された事態から作品世界に関係性が投射されるときの観照と、関係性から可能世界に別の事態が投射されるときの観照とは、オタクの精神において全く同時に起こっている同一の出来事であると理解されます。尊い気象がわれわれの精神を通過するやいなや、一瞬にして爆発的に肥大化する気象、その全ての尊さに圧倒され、結局われわれは何を見せられているのかと途方に暮れ、理解に苦しみます。その測り知れない全体性は巨大不明感情という名のもとに、最終的に女女の方に投射されることになります。この巨大性が気象のもう一つの本質です。

気象とはこのように、われわれ百合オタクをしてありえん尊みが深がらしめるところの当のものであるというわけです。

次回予告

いかがでしたか? 怪文書を読むとちょうどいい具合に精神が攪乱されて気持ちがいいですね。

ここまで来れば、このツイートでなされている百合の定義の大枠がはっきりしてきたのではないかと思います。しかし、まだ重要なところの半分しか説明していません。次回はこの「懐古的措定」について解釈していきます。

百合オタクは女女の関係性を消費しますが、百合オタクオタクは女女の関係性を消費する百合オタクの観照を消費します。よろしくお願いします。

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