母との間に生まれた確執◇前編
今まで母の事について何度も書こうと思ってたんですがつい感情的で乱暴な言葉になってしまい冷静になれませんでした。
でも先日実家のお墓参りに行って母を見てから客観的に見れるようになったのか?
エドガーケーシーの本を読んだからなのか?
少し冷静に書けそうになったので今のうちに書いておこうかなと思います。
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母とはどんな人物なのか?
母は大阪の松屋町(通称まっちゃまち)と言う都会の真ん中で産まれ、裕福な家庭ではなかったと聞いております。
同居していた母の祖母は大変厳しい人で母の母(私の祖母にあたる人)とは折り合いが悪く、父は産まれる前に他界、母が中学生の頃に母(私の祖母)が他界し、高校時代は夜間学校に通いながら昼間は働く生活をしていたそうです。
幼い頃から今まで随分と振り回されました。
あまりにも時間を守らないせいでいくつもの職場でクビになっています。
私は母にはいつもいつも時間を奪われていました。
私が産まれてから
母が22,23歳の時に父と出会い私が産まれました。
今でいう授かり婚で、妊娠5か月になるまで私がいる事を知らず、分かった時には堕胎する事ができないくらいにまで育っていたそうです。
幼き頃はこの意味がわかってなかったですが、それなりにわかる歳になった時には少し複雑な思いとなりました。
なぜかと言うと、もし早くに妊娠がわかっていたら堕胎していたかもしれないからです。
しかも途中流産しかけたらしく、もしかしたら私はこの世に産まれてこなかった命かもしれません。
出産を機に私の出身地大阪北部に引っ越し。
慣れない土地でしかもド田舎。
都会産まれの母からしたら賑やかで夜でも灯りのある街とは正反対の町はとても寂しく感じたそうです。
しかも私が産まれた当時の父は麻雀や飲み会で御前様な毎日。
私の祖父と父兄弟との同居で友達もいない。
事ある毎に田舎は嫌いだ、何にもない町だと愚痴っていたのを覚えています。
そして、私が2.3歳の頃言葉が話せるようになると母のストレスもピーク。
頻繁に父の職場に「あんな子は嫌や!言うことを聞かないし懐かないし辛い!」と電話をしていたそうです。
それもそのはず自分でも自覚してますが、全然母に甘えない子で迷子になって母がいなくなっても平気。
母と離れていても一切きにせず寂しさを感じたことはなかったですし、なぜだか昔から母が特別な存在ではなっかたと思います。
家出をした私
母との確執の最初のキッカケとなったのが私が3歳の時。
お外で遊ぶ時はお寺の鐘(夕方5時に鳴る)が鳴ったら帰ってくるようにと言われていました。しかし遊びに夢中の私はその音が耳に入っておらず帰り遅くなった時がありました。
帰りが遅くなったと言っても長屋の家の前で近所の子と遊んでいるだけで、そんなに遠くには行ってなかったと思います。
家に帰ると鍵がかけられており、どんなに叫んでも家に入れてもらえなかったのを今でもよく覚えています。
何度お願いしても家に入れてもえない私は
「母に捨てられた」と思いました。
そのまま家に入るのは諦め、夕暮れ時に一人で三輪車に乗りウロウロとあてもなく家を離れました。
その時は「もうにはもう帰らない!」と思ったのを覚えています。
3歳児の行動範囲とは大した事がなく、どこに行けばいいかわからず結局駅前まで行きウロウロ~夜になって知り合いの家で保護されたのでした。
嘘をついていた小学校時代
物心が着く頃、母は自分の母や祖母から家事を教えてもらわなかったとよく口にし、他人の愚痴も多くいつも聞かされてた。
掃除・洗濯・炊事全般において嫌いで苦手な母。でも家族がいるから嫌でもやらなければいけないが家事全てを後回し。
転々とするパート先で働いてはいたものの勤務時間も短く家事をする時間は十分あったように思えるのだがいつもいつも口癖のように
と言い続けた結果我が家はゴミ屋敷になってしまいました。
*****
小学校に入って初めて友達の家に泊まりに行ってあまりの違いにショックを受けました。
初めて自分のうちが何か変だとわかり恥ずかしい気持ちで一杯になりました。
この頃から母に
「絶対の友達を家に入れてはいけない!」
と強く言われてましたし、私自身もあれ荒んでいる部屋の中を見られるの恥ずかしいと思うようになりました。
「今度引っ越すから準備でダンボールいっぱいだから来ちゃダメなのと友達嘘をついてね」
と母から言われてた私は母に言われるがまま
その場しのぎの嘘をつき続けました。
毎回必死で嘘をついてごまかす私。
内心は友達を家に呼びたいし、嘘をつくのがとても辛かったです。
勝手に家に友達を連れて来ようもんならヒステリーに怒られるから、嘘をつく以外の選択肢はありませんでした。
そして「片付けは私がやらねばならない事だから勝手に物をさわるな!」とよくいわれてました。
母のようになりたくない
中学に上がる頃には更にゴミ屋敷が悪化。
(この事はまた別記事で書かせてもらいます)
洗濯をして欲しいと言っていつまで待っても制服のブラウスや体操服を洗ってくれない母。
ようやく洗ってくれた!と思ったら登校前で体操服は冷たいまま。
濡れたままの体操服で体育をした事もあったため、この頃から自分で洗濯するようになりました。
この時は確か「後で洗うつもりやったのに」と嫌な顔をされてたと思います。
でも待つよりも自分でやった方が遥かに早いし、汚れた服を着るのも嫌だったので。
料理に興味がなく、たまに手作りしてくれても味が不安定で正直美味しいとは言い難いご飯。買ってきた物も多かったので私は母の味、いわゆるおふくろの味を知りません。
食事を作る前に前々の食事の洗い物をしてからようやくご飯を作り始めるため、お腹をすかして帰っても夜遅くまで食事はありません。
ですのでお菓子を食べたり菓子パンで済ませたりする事も少なくありませんでした。
少しでも手伝いをと思って洗い物を勝手にしようとすると
「後でやるつもりだから触らんとって!」
と怒られる事も多く台所に立たせてもらえる事はありませんでした。もちろん母に料理をちゃんと教えてもらった記憶があまりありません。
父はいつも食事が遅いとイライラ。
散々待って出てきた料理の不出来さに満足できずキレてお箸を投げつける。
そして部屋も荒んでいて毎日毎日怒鳴る父に言い訳をしたり、時には黙って何も言わない母。
私は絶対母のような人間になりたくない!
そう思い始めた頃でした。
後半へ続く
ここまで書いてみて正直記事を投稿するか迷いました。
母の悪い所ばかり書いて自身の我慢の無さや惨めさを皆様にさらしただけではないかと。
同情が欲しくて書いた物ではなくただ私が体験した事、感じた事実を書いておきたかったのです。
今の自分があるのは紛れもなく父母、ご先祖さまがおられたおかげ、色んな体験をして今の自分が出来上がったのです。
一時期は母の事を恨み嫌っていましたが、今は恨みも何も感じません。
今はこれからの事をどうするのか考えている所です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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