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【デヴィ夫人】

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本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ。
日本名は根本七保子と言います。

インドネシアのスカルノ大統領の第3夫人となったのですが、この経緯には、賠償金ビジネスが絡んでいます。
日本政府はインドネシアへの戦後賠償金(803億円)を払うことになったのですが、ここにはあるビジネスが組み込まれていました。
インドネシアは支払われた賠償金で、日本から物資を購入するという取り決め。
なので、賠償金は結局日本の商社や建設業者へと流れる仕組となっていたのです。
その際、商社がスカルノ大統領へ派遣したのが、当時19歳だった根本七保子(後のデヴィ夫人)。

彼女は赤坂のナイトクラブ「コパカバーナ」働いていたのですが、中堅商社の東日貿易の久保正雄社長の目に留まり、丸紅から「東日貿易の秘書」としてスカルノ大統領の元へ送り込まれたのです。
インドネシアへ渡ってから数年間はスカルノ大統領の愛人だったのですが、1962年正式に結婚しスカルノ大統領の第3夫人となり、名前もラトナ・サリ・デヴィ・スカルノへ変更しました。
こうしてデヴィ夫人となったわけですね。

ただ、この賠償ビジネス。
元を正せば賠償金は税金から賄われ、それを一部の企業へ流すというものでした。
スカルノ大統領や日本の政治家にも数%のキックバック(御礼金)があったとされています。
こうした経緯から日本にいるデヴィ夫人の家族にバッシングが相次ぎ、彼女の母親は心労で亡くなり、弟は自殺してしまったのです。

その後、スカルノ大統領はクーデターにより失脚し、デヴィ夫人はフランスへ亡命するとことなったのです。
今のバラエティー番組に出ているデヴィ夫人からは想像できないような苦労があったんですね。

なお、この結婚に関する裏話などは、山崎豊子の小説「不毛地帯」のモデルになったと噂されています。


参考
「昭和の「黒幕」100人」210-211頁
キラキラしたいっ!
大分県日田市の願正寺のホームページ
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